DRAGONBUSTER 秋山瑞人 ------------------------------------------------------- 《》:ルビ (例)生国《しょうごく》は卯《ウー》 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)円将|王朗《オーロ》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定 (例)[#かねへん+票] -------------------------------------------------------    序 龍の系譜  遠い昔、老人は�龍�を見たことがある。  老人は、近頃《ちかごろ》では「群狗《グング》」と名乗ることが多い。先祖と両親から受けた本名はとうの昔に延覇《エルハ》山の坊主が葬《ほうむ》ってしまったし、その後の血塗られた半生においては名前などいくつあっても足りはしなかった。生国《しょうごく》は卯《ウー》、護神は申《さる》、自身の正確な年齢も知らぬくせに、龍を見たあの日からどれだけの歳月が過ぎ去ったのかは今でも数えている。あれは、六十と七年前——四年と六ヶ月間続いた白陽天動乱の、最後の夏。  あの日、群狗は卯が派遣した討伐《とうばつ》軍の一兵士として、白陽天は黄山の麓《ふもと》にあったはずの八門関という砦《とりで》を守る任に就いていた。  あったはず——というのは、あの動乱の後に卯室で編纂《へんさん》されたどの戦記を紐《ひも》解いても、「八門関」などという砦は最初から存在しなかったことになっているからだ。勝った側の歴史など所詮《しょせん》そんな程度のものではあるが、とりわけ天下の軍国たる卯にしてみれば、あの一件は是《ぜ》が非でも葬り去らねば収まりのつかない理解不能の記憶であったのかもしれない。あの夏が去った後も、白陽天は氏《うじ》も素性も異なる幾通りもの戦《いくさ》に蹂躙《じゅうりん》され、かの地の人々はその度《たび》におびただしい難民となって中原《ちゅうげん》に四散した。今日、黄山の麓には下草に埋もれた石組みの痕跡《こんせき》がわずかに残るばかりで、近隣の古老を訪ね歩いても、かつてそこに卯軍の砦があったことを憶《おぼ》えている者はまずいない。  しかし群狗は、若き雑兵《ぞうひょう》として日々を過ごした八門関の最後の一日の光景を、つい昨日のことのように憶えている。あの日は蜻蛉《とんぼ》の日だった。一体どこから湧《わ》いたものか、一日前までは一匹たりとも見かけることのなかった紅色の蜻蛉が我が物顔で辺りを飛び交って、桶《おけ》の水を尾で突いて回ったり槍《やり》の穂先《ほさき》で羽を休めたりしていた。暑気は夕刻になってようやく緩み、落日のはその半ばを砦の防壁に斬《き》り落とされ、広大な夕空の遥《はる》かな高みにまで渦を巻く蜻蛉の群れを見上げていると束《つか》の間気が遠のいた。  中でもひときわ鮮明な記憶は、「北東に大凶の兆《きざ》しあり」を示す占術の幟《のぼり》が砦の防壁に掲げられていたことである。当時の卯軍に従軍占術師を随行《ずいこう》させる慣習がまだ残っていたと聞くだけでも大抵《たいてい》の史家は驚《おどろ》きを隠さないが旧白旗軍系の術師集団の一部には、他国の王を傀儡《かいらい》と化したり敵将を呪殺《じゅさつ》したりといった古《いにしえ》の怪力乱心を本気で復興させようとしている連中さえいたらしい。もっとも、砦の足軽《あしがる》たちにとってあんな旗切れ一枚の縁起の良し悪しなどまったくどうでもいいことだったし、翌日の天候すら満足に言い当てられない八門関の占術師はどうしようもない凡愚《ぼんぐ》に違いなかった。幟の上げ下げも歩哨《ほしょう》の仕事のうちであり、これで自分たちより遥かに高い禄《ろく》を得ているのかと思えば、防壁の風に揺られるしか能のない占術の幟は砦の雑兵たち全員のうっすらとした憎悪《ぞうお》の対象ですらあったのだ。  そんな役立たずの幟が、あの日に限って、八門関を滅ぼす大凶が北東より到来すると看破していたのは一体どういうわけだったのだろう。  群狗は今も昔も占いなど信じない。呪札を燃やしたり宝石を転がしたりするだけで先々の吉凶が知れたら誰《だれ》も苦労はすまい。——が、あの日の防壁に掲げられていた幟とその後の出来事とを顧《かえり》みたとき、あるいは占術師たちの言う通り、人々の生死に関《かか》わるような吉事や凶事にはそれなりの兆しが伴うものなのではないかという思いに囚《とら》われることがある。龍の気配は、明日の空模様すら占えぬ術師にもそれと知れるほど確たるものだったのか。あの日を境に湧いて出た蜻蛉の群れも、思えばある種の凶兆だったのではないか——  否《いな》。  やはり、ただの偶然だったのだろう。  群狗の迷想はしかし、結局はいつもそこへ行き着くのだった。そもそも、あの日の八門関の命運を本当に見通していたというのなら、当の占術師自身がまず真っ先に逃げ出していたはずではないか。  老いさらばえた分だけ魂《たましい》も干乾《ひから》びて軽くなったのかもしれない。近頃では、意識の手綱《たづな》をほんの少し緩めるだけで、遠く過ぎ去った日々の何時《いつ》へなりと容易に飛翔《ひしょう》することができるようになってしまった。——あの日あの夕刻、大凶を告ぐる幟を掲げよと自ら命じたあの無駄飯喰《むだめしぐ》らいは一体何をしていたのだろう。またぞろ下手《へた》くそな詩でも捻《ひね》っていたか、運河の岸辺に洗濯をしに来る女たちをのぞいていたか。西日の射《さ》し込む粗末な執務室では、当時の砦の首領であった円将|王朗《オーロ》が流刑《るけい》も同然の己《おの》が任を呪《のろ》いながら、性懲《しょうこ》りもなく転属を懇願《こんがん》する書状をしたためていただろう。無理もない、動乱の初期ならいざ知らず、戦線もすでに地平の果てへと去ったあの頃、八門関は大掛かりな戦や輝かしい功名とは無縁の砦だったのだ。出入りの商人は証文に判を突き、午後番の歩哨たちは汗と虱《しらみ》と退屈にまみれ、群狗自身はと言えば、天幕の日陰に長椅子《ながいす》と丼《どんぶり》を持ち出して仲間三人と賽《さい》を振っていた。  ——なんだ手前、やっと親落ちしたら途端に勝ち逃げか?  ——小便だよ。戻ったら残りのケツの毛もむしってやる。  そんなやり取りを交わしたと思う。  群狗はそれまでの勝ち分を懐《ふところ》にしまい込むと、目の前をうるさく飛び回る蜻蛉を手で追いながら厠《かわや》へと向かった。尿意《にょうい》を覚えたのも別に嘘《うそ》ではなかったが、そのまま勝ち逃げする気がなかったというのは今にして思えば明らかな嘘だ。誰ぞ兵長あたりにつまらぬ雑用でも言いつけてもらえぬかと期待してわざと足取りを緩めているのに、こんなときに限ってどこからも声がかからない。  砦の中庭は、燕の商標をつけた巨大な荷車が三両と全身汗まみれの人足《にんそく》たちでごった返していた。燕《エン》家は近郷の大店《おおだな》であり、雇いの人足たちもみな白陽天の人間である。兵站《へいたん》の一部を占領地の豪商に委託していた砦は他にも例はあったはずだが、その際の面倒な規則や手続きを一応なりとも遵守《じゅんしゅ》していたのは八門関だけだったかもしれない。実のところ、そうした厳格さは当時の首領の鼻持ちならない貴族根性の皮肉な副産物であり、ともあれ厳重極まる審査を経た商人でなければ出入りは決して許可されなかったし、人足たちが裸に近い格好で働いているのは武器を持ち込ませないための用心だった。あの当時、やはり戦線に置き去られた挙句《あげく》に怠慢《たいまん》と腐敗《ふはい》の泥沼に沈み果てた駐屯地《ちゅうとんち》は数多い。その意味においては、八門関は相応の軍規をどうにか保ち、警備もそれなりに行き届いた、いっそ模範的な砦であったとも言える。  厠は中庭を渡った左記、砦の北東の方角にあった。  棺桶《かんおけ》をひと回り大きくして縦に置いたような、小屋とも呼べぬ小屋が立ち並んでいる。  三年以下の兵はみなこの吹きさらしの厠で用を足す決まりだった。三方を板で囲って屋根を載せただけの作りで、一朝《いっちょう》事あらばすぐさま飛び出せるよう、入り口には扉の代わりに垂れ幕が掛かっている。床には用を足すための大きな穴が開いており、小屋の下の土は塹壕《ざんごう》のように広く深く掘り抜かれていて、ひと抱えもある糞樽《くそだる》が並べて置いてある。樽の中身を砦の外に捨てに行くのは捕虜《ほりょ》や罪人たちの仕事だ。  厠の数はおそらく十ほどであったろう。同じ釜《かま》の飯を食っていると催《もよお》す間隔まで似てくるのか、切羽《せっぱ》詰まって来てみるとすべての小屋にまんべんなく行列ができていてうんざりさせられるのも決して珍しいことではなかったが、あの日、西日の中に立ち並ぶ厠には垂れ幕を捲《まく》って出入りする兵の姿が二、三あるばかりだった。  尿意に急《せ》かされて、群狗は向かって右端《みぎはし》の厠へと足をむけた。  そこが一番手近だったからである。  他意はない。用を足すときはいつも右端と決めていたわけでもないし、どこぞの神仏にそうしろと囁《ささや》かれたわけでもない。  入り口の垂れ幕に手を伸ばしかけたとき、それを内より捲り上げる手があった。  女の手だった。  女の手は日に焼けた細腕へと続き、細腕はぼろ布に包まれた豊かな胸元へと続いた。  目の前の厠から、女が出てきた。  尿意など、ひとたまりもなく消し飛んでしまった。  長い長い髪の女だった。歳《とし》の頃は二十に届くかどうか。道端《みちばた》から拾ってきたような貧相な布切れで肝心《かんじん》な所を固く縛《しば》っただけの、遠い蛮国《ばんこく》の女《おんな》奴隷《どれい》と言われれば誰もが信じるであろう風体《ふうてい》。加えて、その全身には何やら得体の知れぬ汚泥《おでい》がぬめり付いており、力なく垂れ下がった両腕の先にはあろうことか、刀身長で二尺ほどの双剣が抜き身で握られていた。  群狗は驚きのあまり声もなく、我知らず一歩|脇《わき》に退いて道を譲《ゆず》っていた。  女はまるで表情を動かさない。  すぐ傍《そば》にいる群狗など一顧《いっこ》だにしない。  肩が触れんばかりの距離ですれ違った。  途端に固形物のような異臭《いしゅう》が鼻を突き、群狗は女の頭から足の先までを汚しているものの正体を知った。  最初は泥かと思ったそのそのぬめりは、腐《くさ》れきった糞尿《ふんにょう》だ。  糞まみれの女は、あたかも病み上がりのような足取りで五歩も歩いてふと立ち止まった。汚物にまみれた背中の反りが西日を受けてぬらぬらと光っている。未《いま》だ首の据《す》わらぬ赤子のように頭を仰向《あおむ》かせ、たったいま厠から産まれ出てきたような女はまるで、数知れぬ蜻蛉が飛び交う満天の広さを目《ま》のあたりにして途方に暮れているかに見えた。  ——物狂いか。  この女は、羅金《ラーゴン》の街はずれにある夜な夜な屯《たむろ》する商売女のひとりではないのか。  どこぞの部隊の馬鹿《ばか》どもが久々の非番に羽目を外そうと羅金の酒家に暴れ込み、酔った勢いで梅《ばい》の毒に頭をやられた夜鷹《よたか》を砦に連れ帰ったのではないか。朝が来て、酒の抜けた馬鹿どもは事の重大さに青くなり、取り敢えず人目につかぬ所に女を閉じ込めておいたものが何かの手違いで逃げ出して、剣にすがってよろぼい歩くうちに厠へ迷い込んで糞樽にはまったのか。  冷静に考えれば、到底《とうてい》ありそうもない話である。  しかし、混乱の極みにあった群狗の頭が最初に捻り出したのは、そんな冗談のような筋書きだった。なるほど、肌も露《あらわ》なその風体や尋常《じんじょう》ならぬ振る舞いが正気を失《な》くした夜鷹のそれであるとする解釈は道理をそう外れたものでもあるまい。夕刻まで誰にも見つからずに女ひとりを隠しておけるような場所も、員数外の真剣がそこらに捨て置かれているなどという不始末も絶対にないとは言い切れない。 「——おい、何者だ貴様」  赤ら顔の初年兵だった。  名前はもう思い出せない。  群狗の後に続いて用を足しにきたのであろう。しばし呆然《ぼうぜん》と女を見つめていたのも群狗と同じだったが、思わず一歩退いて道を譲ってしまった群狗と違って、赤ら顔は腰帯を解《ほど》きかけていた手を伸ばして女の肩を掴《つか》もうとしたのだ。  それが、生きるか死ぬかの違いとなった。  若気も枯れ尽くした今でこそ、群狗はあの日の我が身の未熟さを笑うことができる。太刀筋《たちすじ》は「見えなかった」のではなく「意識できなかった」のだと今では理解している。あれほど見事に水月《すいげつ》を貫《つらぬ》いたのでは出血も知れたものだったろう。  だが、あの日の群狗には何が何やらわかっていない。  不意に口をつぐみ、石像のようにばったりと倒れ伏した赤ら顔がすでに事切れていようとは夢にも思わない。女が再び歩き出す、たまたま通りかかった膳坊長が、その異様な姿を視界の隅に捉《とら》えてぎょっと立ちすくむ。  何の躊躇《ためら》いもなく、女は無造作《むぞうさ》に膳坊長の胴を抜いた。  溢《あふ》れ出た臓物は軍服の内に溜《た》まり、衝撃《しょうげき》を抱え込むように身体《からだ》が折れ曲がったその様は、盗んだ果物を服の下に山と隠して遁走《とんそう》しようとする童《わらべ》のようだった。すぐに膝《ひざ》が折れ、膳坊長はひゃあひゃあと悲鳴を上げながら血まみれの砂転がしになって、しばらくの間は生きていた。  その悲鳴で、中庭にいた全員がようやく異変に気づく。  兵たちは防壁の内を振り返り、人足たちは作業の手を止めて、砦の只中《ただなか》に忽然《こつぜん》と出現した女を呆気《あっけ》にとられて見つめる。まずはその異様な風体、両手に双剣。その背後には断末魔《だんまつま》に転々とする膳坊長とつっ伏したまま動かない初年兵。さらにその背後で腰を抜かしたようにへたり込んでいる二年兵がひとり——すなわち群狗。  曲者《くせもの》と叫ぶ声もなく、歩哨の警笛が吹き鳴らされることもなかったのは、咄嗟《とっさ》に事態を把握《はあく》し得た者が誰一人としていなかったからだろう。奇妙な沈黙《ちんもく》が中庭を満たし、兵たちは互いに顔を見合わせつつ腰を上げ、得物《えもの》が手から手へと投げ渡されて漠然《ばくぜん》と厚みを増していく包囲の中に、それでも足を止めようとしない女は自分から踏み込んでいく。 「おい、」  その喉元《のどもと》に槍の穂先が突きつけられ、まずは五人ほど兵が女を囲む形となった。槍を向けているのは見るからに酷薄《こくはく》そうな顔つきの兵長で、普段から下の者に対しては何かにつけて威張《いば》り散《ち》らす嫌《いや》な奴《やつ》だったと記憶する。女の胸から腰へと目を移す途中で、その全身を汚しているものの正体にどうやら気づいたらしい。口の端まで出かかっていた猥褻《わいせつ》な台詞《せりふ》を飲み込んだのが遠目にもはっきりと見て取れた。——名前は確か、迂琉《ウル》。 「——、あのな。そいつを捨てて、地面に這《は》いつくばれ。大人しく従えば」  命は取らん、とでも言うつもりだったのか。  だらりと構えていたはずの槍、その手元から先が斬り飛ばされた消失し、一歩|退《ひ》こうにも右足の膝から下にはまったく力が入らない。実に不思議そうな、まるで大道の奇術にでも見入っているかのような顔をした迂琉の右肩に今度は下りの斬撃《ざんげき》が滑り込む。血潮がしぶき、闇雲《やみくも》に突き込まれた幾筋もの槍が土を噛《か》み、続く一人が喉笛を耳から耳へと両断され、両の手首を槍もろとも撃ち落とされた者があり、残る左右の二人は一体何が起きたのかもわからぬままに胴を払われたに違いない。  一拍も二拍も遅れて、驚きとも怒りともつかぬ叫喚《きょうかん》が天を突いた。  女が踊る。その動きは淀《よど》むを知らず、万化《ばんか》して定石《じょうせき》を持たない。兵たちは得物を握り締めて怒号を発し、一時は退いた包囲の輪が数知れぬ槍の刺突《しとつ》となって集中する。長い髪が西日を受けて弧を描《えが》き、血玉を跳《は》ね散らして疾《はし》る女の双剣が次々と新たな血を舐《な》めていく。  厠の一歩前の地べたはまさに、特等の見物席であったと思う。  魂を抜き取られたかのように、その一部始終を群狗は見ていた。女はすでに十人以上を衆目の中で斬り殺している。兵たちは誰しも頭に血が上っていたはずで、女を捕らえた暁《あかつき》には八つ裂《ざ》きにでもしないことには到底収まりがつかなかったに違いない。  それでも、当初の兵たちの間にはどこか、退屈な砦に降って湧いたこの空前絶後の珍事を面白がっているような空気が確かにあったと思う。中庭を満たす叫び声には女を囃《はや》し立てるような響《ひび》きが混じっていたし、雄叫《おたけ》びだけは勇ましい調子者が片足を飛ばされて転げ回るその無様《ぶざま》には荒々しい笑い声さえ上がった。女を見事討ち取ったら褒美を出すとでも言われたのか、燕家の人足たちまでが唾《つば》した両手に天秤棒《てんびんぼう》を握り締めて走り出す。  さらに十人が斬られた。  ようやく兵長たちが怒鳴り声で指図《さしず》を飛ばし始めるが、一度始まってしまった乱戦に秩序を取り戻すのは口で言うと実際にやるとでは大違いだ。周囲の制止も聞かずに弓を持ち出してきた馬鹿がいて、それでなくても方々で発生していた同士討ちに一層の拍車がかかる。見るだに歯痒《はがゆ》いそれら失態が、時に自らを囮《おとり》とする女の身法によって誘導されたものであることには誰一人として気づかない。夕空を圧する雄叫びに驚いたのか、それとも辺り一面に漂う血煙を嫌ってか、中庭を飛び交う蜻蛉たちの軌跡《きせき》は骸《むくろ》に群がる蠅《はえ》のような禍々《まがまが》しさを増していく。  さらに十人が斬られた。  南北の門が閉ざされた。もはや逃げ道は無く、これほどの多勢に無勢は戦術的な有利不利を通り越していっそ馬鹿馬鹿しい。兵たちは十重二十重《とえはたえ》の陣を組み、熾烈《しれつ》を極める槍の撃ち込みはしかし、ただの一度も女の身体に届かない。糞にまみれていたはずの肢体《したい》は今や血の池から這い出てきたかのような有様で、一歩ごとに血の足跡を残して槍の中で踊る姿はもはや人間とは思えず。背後からの撃ち込みにさえ後《ご》の先《せん》を取る剣舞は背中に目があるとしか思えない。  さらに十人が斬られた。  この期《ご》に及んでようやく、兵たちの間に静かな動揺が広まりつつあった。  あの双剣の間合いに踏み込んで、五体無事に出てきた物が一人もいない。  そもそも槍をもって剣に対するは、それだけでも生半《なまなか》には覆《くつがえ》らぬ戦の利ではなかったか。  そして、さらに十人が斬られた。  もう誰も笑ってはいない。怒声も雄叫びも尻窄《しりすぼ》まりに終息してしまった。息を吸い込めば味がするほどの血臭の中、女は数知れぬ骸の叩頭《こうとう》を受けてゆるゆると立ち尽くしている。その様を人語で言い尽くすのは至難だ。身体の軸が定まらぬあたりは酒に酔い痴《し》れているかのようにも見えたし、双剣を微《かす》かに揺らめかせて何事かを呟《つぶや》いている様は、当人にしか聞こえぬ調べに合わせてゆっくりと拍子を刻んでいるかのようでもあった。  女が一歩前に出る。  頭がぐらりと揺れて、顎先《あごさき》が胸に触れるほどに深く俯《うつむ》く。  隙《すき》ありと見た一人の兵長が素晴らしい突きを放った。呼吸に緩み無く発勁《はっけい》は重厚、両足《りょうそく》は大樹の如《ごと》くに地《つち》を捉えて盤石《ばんじゃく》。あの一突きこそまさに雑兵の意地、錬兵で詰め込まれたお仕着せの兵法が、弛《たゆ》まぬ精進《しょうじん》を経てのみ到達し得る極北の姿であったと皮肉でなしに思う。  女が踊った。  槍が弾《はじ》け飛び、濡《ぬ》れ布を振るうような一刀が兵長の下腹を滑り上がっていく。女は最後まで顔も上げない。双剣は旋回する血色の暴風となって、兵長に続く血袋《ちぶくろ》どもをひと息のもとに弾けさせていく。首を裂き腕を落とし、下顎から頭蓋《ずがい》を肩口から心の臓を突き通し、這いつくばって身を翻《ひるがえ》そうとした最後の一人は切っ先で地を掻《か》く斬撃がその後足を逃さなかった。  組織的と言える反撃は、この一隊が最後であったかもしれない。  夜が忍び寄りつつある空に高く跳ね上がり、あの日最後の日の光に煌《きらめ》きながらゆっくりと回転し、厠の手前にへたり込んでいる群狗の一歩先にどかりと突き立つ一本の槍があった。  兵長の槍だった。  潰走《かいそう》が始まって以降の顛末《てんまつ》は、見るも無残なものだった。なおも踏み止《とど》まって戦う者と得物を放り出して逃げ惑《まど》う者、女はその両方を分け隔《へだ》てなく殺していった。  烏合《うごう》の衆へと堕《だ》した兵たちは南北の門へと殺到したが、普段は四人いれば開くはずの大扉が何人がかりで押してもびくとも動かず、それでも兵たちは次から次へと押し寄せて圧死者を出すほどの大混乱が生じた。怒号と人波に飲まれて状況を見通すことができず、「自分たちを逃亡させないように士官連中が大扉を閉ざしているのだ」という勘違《かんちが》いをする者も現れて、ついには互いに鼻をこすり合うような距離での壮絶《そうぜつ》な斬り合いさえ始まった。  大扉が開かなかった理由を群狗が知ったのは、何年も後のことである。  群狗も含め、砦の中にいた兵たちのほとんどは気づいてさえいなかったが、あの時すでに八門関は伍頭一誠党の手勢に包囲されていたらしい。伍頭一誠の「伍頭」は頭目の通称であり、白陽天軍の崩壊によって山賊《さんぞく》化《か》した一部勢力が、この地に人脈を持つ侠客《きょうかく》崩れを担《かつ》いで立ち上げた無法者の集団であった。  この話を群狗に語ったのは、あの日たまたま羅金の街に出かけていて命拾いをしたという三人の「生存者」のうちの一人である。所用を済ませて砦に戻ってきたところでその場に出くわして、物陰から一部始終を切歯扼腕《せっしやくわん》して見守るより他になかったという。どうにも怪しい話ではあったが、何か後ろ暗い事情でもって無許可離隊していたのだとすれば、「見守るより他になかった」というのは案外本音だったのかもしれない。砦を囲んでいた手勢の数を三百とその口は語ったが、実際にはせいぜ五十名ほどであったろうと群狗は見ている。必要な物資は予《あらかじ》め荷車に積んで付近に隠してあったはずだ。砦に潜入した女が暴れ出すと、門番たちは逃げ道を塞《ふさ》ぐために大扉を閉ざす。それを確認したら最初に物見《ものみ》を砦に接近させ、もし門の外に歩哨が残っているようなら始末して、続く本隊が土嚢《どのう》や丸太で大扉を外側から封鎖する。作業が終わったら全員で砦の周囲に展開、防壁の回廊から飛び降りて逃げようとする奴がいたら矢を射かけ、あるいは足を挫《くじ》いて唸《うな》っているところに飛びかかって切り刻む——。それなりに目端《めはし》の利《き》く者が采配《さいはい》を振るうなら、もっと少ない頭数でも実行は可能だったろう。  そんな混沌《こんとん》の真っ只中に、あの日の群狗はいた。  厠の一歩手前に座り込んで、眼前の地獄が脳天にまで染《し》み透《とお》って身動きもできずにいた。  このままでは遠からず死ぬことになる——そんなことを心のどこかでぼんやりと考えたりもするのだが、戦う者の雄叫びも逃げ惑う者の悲鳴もどこか他人事《ひとごと》の気配が濃厚だ。すぐ目の前に赤ら顔の初年兵がうつ伏せに寝ている。膳坊長も今は静かなもので、手足を固く縮めて背中を丸めた格好のまま、大声を出したり転げ回ったりするのももうとっくに止《や》めてしまった。あのから一体どれだけの時が経《た》ったのか。中庭に満ち満ちた骸の群れを、西日の残照に半分だけ薄められた夜の闇が包み込んでいる。賽の博打《ばくち》で巻き上げた懐の重みが何だか少し悲しく、ふと目を上げれば、目の前に突き立った槍の石突《いしづ》きには一匹の蜻蛉が止まっていた。  なぜ、その槍を取ろうなどという気になったのだろう。  ただ一人仲間に入れてもらう勇気を奮い起こせぬまま、もうじき事が終わってしまうのに気づいて急に寂しくなったのかもしれない。  指先が竿《さお》に触れるより一瞬《いっしゅん》早く、蜻蛉はふわりと浮き上がって薄闇に紛れてしまう。両手で槍を握り締め、立ち上がってもしばらくは足が痺《しび》れてその場を一歩も動けなかった。いつの間にか女の姿を見失っていたことに気づくが、そのとき厩舎《きゅうしゃ》の方角から聞こえた馬の嘶《いなな》きと人間の叫びがそれ[#「それ」に傍点]であろうと大雑把な見当をつける。中庭はまさに地獄の有様で、骸と血溜《ちだま》りに行く手を阻《はば》まれて悪い夢の中のように歩みは遅々として進まず、手当てやとどめをせがむ手に途中何度足を掴まれたか知れない。やがて、荷車の車列が放置されている辺りにさしかかった頃から周囲の地獄はその様相を変え始めた。叫喚はいつしか背後に去り、つい今し方荷台から落ちたと思《おぼ》しき大壺《おおつぼ》は砕けた縁《ふち》から油を滴《したた》らせ、傍《かたわ》らに転がっている骸の傷は、大した戦も知らぬ二年兵の目にもそうと見て取れるほどに新しい。  いる。  どうやらこの先は虎口《ここう》だ。  二両目の荷車の横腹に背中を預けた。不思議と恐怖はない。むしろ居ても立ってもいられぬほどの高揚感《こうようかん》に歯の根が合わない。女の首級《しゅきゅう》を挙げたら皆の賞賛にどう応えようか——、そんな正気と思えぬようなことを真剣に考えていたが、要するに正気ではなかったのだと思う。間近に迫った確実な死を少しでも先延ばしにしようとしていたのかもしれない。燕家の商隊はいつも決まって三両一列の編成で、栗近《グリゴン》種の輓曳馬《ばんえいば》で四頭|曳《び》き以上の大型貨車は軍事転用を防ぐために製造が禁じられているはずだったが。やはり何事にも例外や抜け道というのはあるものらしい。頭上にのしかかってくるような二番車の巨体は、周囲に鎧板《よろいいた》を張り巡らす程度の改装で充分に戦車の代替《だいたい》が務まるはずだ。右後方、荷台の角を回り込んで十歩も歩けばそこはもう厩舎の入り口で、興奮した蹄《ひづめ》の足踏みがここまで途切れ途切れに聞こえてくる。女がまだあの中にいるのだとすると、一本槍でその後を追うのはいまにもまずい。狭い屋内で長物《ながもの》を振り回すのはどう考えても下策《げさく》だ。付近に帯剣している骸は見当たらず、兵器倉へ取って返そうにもあの中庭を再び横切る気にはなれない。思い余って荷車の下までのぞいてみる。  泥まみれの相貌《そうぼう》と面が突き合った。  群狗とて思わず槍を取り落として尻餅《しりもち》を突いたが、燕家の番頭の驚きようといったら完全に常軌を逸《いっ》していた。積荷惜しさに逃げ遅れ、生き残りの人足たちにも見捨てられて荷車の腹の下に這い込んで震《ふる》えていたのだろう。番頭は追い詰められた猿《さる》のような悲鳴を上げて荷車の下から這い出すと、群狗から一時でも目を逸《そ》らすのが恐ろしいのか、荷台の横板に片手ですがりながら後ろ向きに走って逃げようとした。  ごつん、  群狗の耳には、そう聞こえた。  その瞬間、番頭の顔は確かに笑っていたと思う。  荷車の陰から横ざまに伸びた剣先が、笑う番頭の耳穴深く突き刺さっていた。  がめつい商魂《しょうこん》に似合わぬひょろ長い身体が布を落とすようにその場に屈した。その頭蓋はまだ剣に貫かれたままで、首だけが肩の向きとは無関係の方向に捩《ねじ》れ上がっていく。一番車と二番車の狭間《はざま》からゆっくりと歩み出てきた剣の主は女でもなければ人間でもない。血と糞、人間が原初から知っている臭気を漂わせ、人間を喰う牙《きば》を両手に生やしたそれは、もはや誰の目にも見紛《みまが》いようのない人間以外の何かだった。  悲鳴くらいは上げた気がする。  それとも喉が凍えついて声もでなかったか。  槍、  死に物狂いで手探りをする。指先が触れた竿を握り締め、立ち上がろうとした途端に血溜りに踏み込んで両足が空回りする。女は目の前に座り込んでいる番頭を見つめ、その真似《まね》をかのように小首を傾《かし》げ、やおら肩に足をかけて頭蓋から剣を無造作に引き抜いた。  裂けた耳穴からぬらぬらと抜け出てくる刀身の赤白い照りに、もはや狂う他はなくなった。  秩序立った思考など邪魔物《じゃまもの》でしかない。純然たる狂気に取り憑《つ》かれたら叫ぶことすらできないのだとあの時はじめて知った。あの女を前に、こうして槍を手に生きて突っ立っていることがどうしても耐え難《がた》い。  血溜りを蹴《け》って走り出す。  それよりも一瞬早く女は動いている。わずかに右肩を入れ、上体が翻ってこちらに背を向けようとしているかに見える。一刻も早くあの背中に槍を撃ち込まなければ——そんな目も眩《くら》むような焦《あせ》りで頭が爆発しそうだった。もっと早く動けるはずなのに、どうしてこんなに身体が重いのか、まだ間合いが取れない、もう三歩、せめてあと一歩、もう我慢できない、女の身体がわずかに傾ぐ。  ——あれ?  だめだ、  もう間に合わない、  もう近すぎる。  女の背中はもう槍の穂先よりずっと内側にいる。いつの間に近づいたのだろう。どうやって間合いをすり抜けたのか。息のかかるような距離で女が翻る、長い長い髪が踊る、左肩を開いて振り返ろうとする。間合いを取れ、槍を棍《こん》のように回せ、竿を振るって撃ち込め、当たりさえすればどこだっていい、早く——  その一撃を、群狗は見ていない。  憶えているのは、肋骨《ろっこつ》の間に滑り込んできた切っ先の金臭《かなくさ》い生ぬるさと、その刀身に彫り込まれていた龍の文様だけだ。  天地の感覚が消失した。踏み止まったつもりがうつ伏せに倒れている。どうにか気を失わずに済んだのは、息を吐く度に疼《うず》き上がってくる苦痛を意識したからだった。放り捨てられた案山子《かかし》のような視界の中で、女はすでに群狗に対する一切の興味を無くしていた。その身に浴びた返り血はすでに粘りを帯びて、眠気を堪《こら》えているかのような表情が長い髪に隠れ、女は踵《きびす》を返そうとしたところで不意に立ち止まる。一体どこの粗忽《そこつ》が置き忘れたのか、その足元には木樽に焼印を押すための火鉢《ひばち》が蓋《ふた》も外したまま放置されていた。  群狗の胸を抜いたその切っ先が、火鉢の取っ手をすくい上げる。  薄闇になお陽炎《かげろう》の透ける火鉢を高々と持ち上げて、女は無造作に剣を振るった。切っ先から放たれた火鉢は風を受けて明らかな弧を描き、油の大壺が山と積まれた二番車の荷台の上に焼けた炭を赤々とばら撒《ま》いた。  以降の記憶は断片的である。  首は言うまでもないし、腹もまず望みはない。腕や足を飛ばされた場合も人が思うほどには命を拾えない。斬られた当人も目を剥《む》くほどの血潮が断面から迸《ほとばし》り出て、すぐに正体を失くして大抵はそれっきりだ。  しかし、胸の傷は案外と助かってしまうことがある。  無論それも傷の程度と運の問題ではあって、心の臓を突かれるのは首を刎《は》ねられるのと大して違わないし、胸の内に溢れ出た血潮が喉に回って溺《おぼ》れ死ぬこともある。あの日、群狗の指に絡《から》みついてきた血の色は赤というよりもむしろ桃色に近く、おまけにぶくぶくと細かな気泡が立っていた。後に飽《あ》きるほど目にすることになったが、その生命を脅《おびや》かすほどに人体が破壊された場合には、流れ出る血潮もまたその日常のそれとは様相を異にするものだ。頭からの出血はどろりとした粘り気を帯びていることが多いし、腹からの出血には糞の臭《にお》いとも少し違う悪臭が混じる。  大壺の油を当時の卯軍では「虎血」と呼んでいた。南方の鉱山からでる廃液《はいえき》を精製したもので、古くはあの壺を多数|埋設《まいせつ》して待ち伏せのための罠《わな》とした例もあると聞く。短期の輸送の際には壺の口を硬紙という太鼓《たいこ》の皮のような質感の紙で封印した。親樽から小分けした虎血は紙を通じて適度に「息抜き」をさせないと急速に油質を落とすからだが、そこに火鉢など放り投げたが最後、撒き散らされた炭はいとも簡単にその硬紙を焼き貫いて壺の中に落ちただろう。二番車は跡形も残らなかったはずで、壺を砕いて次々と噴き上がる炎から逃げ果《おお》せるのは五体満足の者にとってさえ相当の難事であったに違いない。  ところが、その難事を自分がいかにして為《な》し得たのかを群狗はまったく憶えていない。胸を抜かれて以降の出来事といえば、前後の脈絡も定かでない不鮮明な光景が思い浮かぶばかりである。博打で巻き上げた金を返さなくてはならないという思いに取り憑かれ、火の手が方々に回りつつある中庭を泣きながら這いずりまわっていたような気もする。炎に追われて、周囲の骸を積み上げてその下に潜《もぐ》り込もうとしていたような憶えもある。あれは夜半も過ぎた頃だったか、——聞こえるか、まだ生きている者はいるか——、寸毫《すんごう》の先も見えぬ闇と煙の彼方《かなた》からそう叫ぶ声がして、その後は行軍歌をいつまでも歌ってる奴がいた。あれは、一体誰だったのだろう。  八門関に向かった商隊が定刻を過ぎても戻らぬことを知った燕家は、子飼いの※[#かねへん+票、読みは「ひょう」]師《ひょうし》二名を早馬に乗せて物見に出している。羅金の番所に駆け込んで八門関炎上の第一報を伝えた男というのはその二名の※[#かねへん+票、読みは「ひょう」]師の片割れであり、まことに恐るべき無能ぶりではあるが、どうやら付近の友軍はその報に接するまで事態にまったく気づいていなかったらしい。怠惰《たいだ》な月日に微睡んでいた将たちの采配は遅れに遅れ、夜も明けぬうちから真っ先に駆けつけた第一陣は、やはり燕家が急遽《きゅうきょ》駆り集めて送り込んだ人足たちの集団であった。——もっとも、連中とて何ができたというわけでもない。人足たちが到着したのは火災が自然に鎮火《ちんか》してまだ間もない頃で、ろくな装備も持たぬ素人《しろうと》が到底踏み込んでいけるような状況ではなかったようだ。結局、本格的な救助活動が始まったのは友軍の工兵隊が現場に入って以降であり、砦の焼け跡に恐る恐る足を踏み入れていった者たちは、まるで地獄が降ったかのようなその惨状《さんじょう》を初めて目の当たりにすることとなった。  積み上がった骸の下から助け出されたときのことも、担架に担がれて黄山の麓を下ったことも、一切が群狗の記憶からは欠落している。  病院として徴発された羅金の旅籠《はたご》に運び込まれて以降も四日ほど意識が戻らず、介護役に回された兵たちはその間、群狗のことを「十三号」と呼んでいた。——無論、十三番目に発見された生存者、の謂《い》いである。思えば、後に数知れぬ名を乗り捨てながら修羅《しゅら》の道を歩むこととなった群狗の、それは最初の別名であった。  その後の卯軍は情報の秘匿《ひとく》と背後関係の調査に躍起になったが、事件とはさして関わりのない反卯勢力に対する弱い者いじめのような攻撃が何度か行われたのみで、それ以上の芳《かんば》しい成果は上がらなかったと聞く。焼け跡からは女と見られる骸はついに発見されず、その行方《ゆくえ》も杳《よう》として知れない。  ただ——、  ひとつだけ、  あの炎の夜の中で見た、群狗が今なお忘れ得ぬ光景がある。  ことによると、あれは紅蓮《ぐれん》の炎が見せた夢や幻《まぼろし》の類《たぐい》であったのかもしれない。今となっては真偽《しんぎ》を確かめる術《すべ》もないが、その記憶は群狗がまだ炎に追われて中庭を這い回っていた頃の、身じろぎをする度に骨まで染み透るようだった胸の痛みから始まっている。つまり、夢ではなく事実だったとするならば、夜が始まってまだそれほどは時が経っていない頃の出来事だ。いくつかの骸が折り重なるように行く手を塞いでおり、確たる目的もないままそれ以上這うことに絶望して周囲の闇を透かし見た群狗は、骸の連なりをひと跨《また》ぎしたその先に、棺桶を縦に置いたような小屋が立ち並んでいることに気づいた。  厠だ。  すべてが始まった場所だ。  そして、ゆっくりと背後を振り返った群狗は、その光景を見た。  余す所なく炎に包まれた砦の全景と、瀑布《ばくふ》のような炎に照らされて真昼ほども明るむ中庭を埋め尽くした骸の群れ、その只中にひとり立つ女。  否。  やはり、夢だったのだと思う。  道理を通せば否《いや》でもそうなる。腐っても八門関は卯軍の砦であり、卯軍の砦には敵の火計に際してもそう簡単には類焼を許さぬ構造というものがある。全体が一度に炎に包まれるような事態は大軍を向こうに回して余程の不運が重なりでもしない限りはまずあり得ないし、最終的に砦の大部分が焼け落ちたのは事実にせよ、常識的に考えればあのような状況は一夜を通じて一度も出現しなかったとするのが妥当《だとう》だ。そこを百歩譲ったとしても、今度はその炎によって女の存在が否定される。芝居《しばい》の一幕でもあるまいし、生身の人間があれほどの大火に取り囲まれたらとても立っていられたものではない。光景の視点たる群狗自身にとってもそれは同じことで、服を発火させるほどの凄《すさ》まじい熱と濁流《だくりゅう》の中に落ちたかのような煙によって、たちまちのうちに命を落としていただろう。  後から茶々を入れることなどいくらでもできる。  しかし、事の真偽など、群狗にとってはどうでもいいことのように思えるのだった。夢であれ幻であれ、群狗はその光景にひとつの天啓とひとつの業《ごう》を得たのだ。夢と天啓は、幻と業は何も相反すまい。  炎の中で、女は不思議と「人間」に見えた。  血で洗ったような長い髪も真っ黒に汚れた細い手足も、そのときはなぜか、戦災に惑うごく当たり前の娘のようだった。女は今にも泣き出しそうな顔で骸の群れを呆然と眺《なが》め渡し、火の粉と陽炎の中をおぼつかぬ足取りで歩き回っては、周囲に転がる骸の顔をひとつひとつ確かめている。歩いては足を止め、再び歩いては足を止め、親に置き去られた子供のような目で左右の骸をのぞき込み、双剣を地に刺して倒れ伏した骸を裏返す。  見紛いようもなく、女は、誰かを探していた。  一体、誰を。  あれほどの死神が、自ら鏖殺《おうさつ》した骸どもの中に今さら誰を探そうというのか。  そして——、  その矛盾《むじゅん》の中に、群狗は女の剣の理《すがた》を見たと思う。鬼の一刀にさえ後の先を合わせてのける徹頭徹尾の受けの太刀。刀身に刻まれた荒ぶる龍をその身の内に呑《の》み下し、間合いに踏み込もうとする他者に反応してその存在を決して許さぬ「人で無しの剣」。襲《おそ》い来る兵たちが、女にとっては方向を逸らすべき槍の穂先にしか過ぎなかったに違いない。双剣の届く聖域に踏み込んだ者は斬って捨てるべき自分以外の何かであって、それ以外の一切は最初から最後まで眼中にないのだ。  厠から産まれ出たとき、女がその身の内に呑み込んでいた龍の目には、八門関は無人の砦と映っていたのかもしれない。  命を捨てて、発狂さえしてようやく槍を撃ち込んだときも、その撃ち込みを外されて胸を抜かれたときも、女にとって群狗は存在さえしていなかったのだろう。  その女が、誰かを探している。  ふと、群狗の胸の内にある感情が生まれた。  それは瞬《またた》く間に身を焦《こ》がすような激情となって、地を這いずるだけの力と思わず身を捩《よじ》るほどの胸の苦痛を等分に群狗に与えた。傍らの骸の手から槍を奪《うば》い取り、耐え難い苦痛に耐えて地を這いずった。  今度こそ斬り殺されても構わないから、もう一度あの双剣の間合いに立ちたかった。  女が背を向ける。  待て。  槍の石突きを地に突き立てる。両手で竿にすがって死に物狂いで身を起こす。  一方の女は、とうとう力尽きたかのようにその場に座り込む。  俺《おれ》を見ろ、と群狗は思う。  俺はまだ生きている。  貴様の相手はここだ。  血を吐くようなその叫びは本当に血となって口から溢れ出る。まず右足が地を捉え、左足もあと少しというところで、救い難い孤独を背負った後ろ姿が大きく身を震わせる。  そして、女は泣き叫んだ。  劫火《ごうか》の中で、身を振り絞るようにして、まるで童女のように女は泣いた。  その慟哭《どうこく》は火の粉と陽炎に巻かれ、星ひとつ見えぬ虚空《こくう》に吸い込まれていく。ついに群狗の両足が地を踏みしめたとき、胸の傷から真っ白な痛みが来て、すぐに真っ黒な闇が来た。  ——俺は、ここにいるぞ。  夢はそこで途切れているが、あの慟哭と傷の痛みは、今でも胸に疼く。  戦の後、卯軍では部隊の損耗《そんもう》を評価するにあたって将兵を三つの等級に分けて管理する。  すなわち、歩ける者と、立てない者と、死んだ者だ。  また、こんな話もある。——武臣倫院では、高等武官の候補生たちに「死者一に対して負傷者二」の原則を教える。傷病兵を後送、介護する用意の整った標準的な戦闘における死者と負傷者の割合は一対二である、という大雑把な経験則だ。仮に、戦線から孤立した部隊が友軍のいかなる支援も最後まで受けられずに「全滅」したとしても、実際には三割程度の重傷捕虜や投降者が発生しているのが普通である。これがもし二割以下であった場合、敵は負傷兵を放置して死ぬに任せたことを意味し、一割未満であった場合、敵は投降者をすべて殺害、負傷者にもとどめを刺して回った可能性が高い。いかなる戦場においても正しいかどうかはさて置き、今日の武臣倫院では、そのように教えている。  あの�龍�の日、八門関で任に就いていた将兵は二百九十と六名。  翌日、友軍の到着後に救助された者のうち、己が足で歩けた者は七名。  立てなかった者は、群狗も含めて十二名。さらにその翌日まで命を長らえた者は三名。  姓名の特定が可能だった死者は六十二名。行方不明者は二十名程度と見られ、九名が後に自主帰隊し、四名が友軍に捕縛《ほばく》されて逃亡者として処罰を受けた。  以上が、後送中に取り調べを受けた際、自らは名前も明かさぬ武官の口から聞いたあの日の始末だ。  だから、これもまた、正しいかどうかはさて置く。        *  だれかに呼ばれた気がして、群狗は顔を上げた。  振り返れば、孫のような歳の女中が小さな肩を気の毒になるほど縮めて畏《かしこ》まっている。 「鴉眼《あがん》様、す、すみませんお休みのところ、あの——」  思わぬ隙を突かれた気がした。目頭を揉《も》み、背もたれの中で姿勢を正して、 「——伊仁《イニ》か。大丈夫、寝てはおらんよ」  鴉眼——というのもまた、今なお十指に余る群狗の呼び名のひとつだ。地方の警務長官やそれに類する者への尊称で、この屋敷の使用人たちの多くは群狗のことをそう呼んでいる。確かに名目上の肩書きはそうに違いはなかったが、今の自分が子守とうたた寝を日課とするただの老いぼれであると自覚している群狗は、そう呼ばれるのが実はあまり好きではない。  すでに夕刻で、庭先の陽《ひ》だまりに出しておいたはずの椅子はいつしか庇《ひさし》の陰に入って少しだけ肌寒かった。草木が濃密に配された庭の景色は未だ少しの現実感も伴って見えないが、伊仁の様子をひと目見たときから用件の察しはついている。 「——月華《ベルカ》様がまた、お忍びで街に出たか」  何やら言いかけていた伊仁は図星を言い当てられて目を丸くした。そりゃあわかるさ、という意味を込めたつもりの群狗の横目を伊仁はたちまち誤解して、 「も、申し訳ありませんっ! あの、わたしも気をつけてはいたんです、でも、克子《カッシ》様が見える前におさらいをするから邪魔をするなと申されて、お昼過ぎからずっとお部屋にこもられたきり、その——」  ——そして、いざ家庭教師が来てみたら何のことはない。部屋はもぬけの殻《から》、窓も開け放たれたままだった。  大方そんなところであろう。置物のように平伏《へいふく》する伊仁のきれいなつむじを見ながら、群狗は聞こえぬようにため息を吐《つ》いた。克子様というのは礼奉式所の末席あたりに身を置くうらなり瓢箪《びょうたん》で、十日に一度、宮中の礼儀作法を教えにやって来る。前回は月華に花瓶《かびん》を投げつけられてほうほうの態《てい》で逃げ帰ったはずだが、群狗の中ではその一件がつい一昨日《おととい》あたりのことのような気がしていたのだ。  まさか、あれからもう十日経ったのか。  歳を取るとこれだから困る。  そうと知っていれば、自分も少しは気をつけていたのに。  「——わかった。すぐに探しに行く」 伊任は面《おもて》を上げて、皮一枚で斬首を免《まぬか》れたような目で群狗を見上げた。その視線を少々|面映《おもはゆ》く感じながら、若いのに似合わずまったく苦労性な子だ、と群狗は思う。伊任はまだ十五にもならぬはずではなかったか。屋敷に入ったのは四年前だから使用人の中ではすでに古株の部類だが、その難儀な性格だけは一向に改まる様子がない。斬首も何も、月華が何かしでかす度にいちいち誰かの首を刎ねていたらこの屋敷はたちまち無人の館《やかた》になってしまう。 「心配は要《い》らない、侍従《じじゅう》たちにも私から話しておくから。邪魔をするなと直々に言われてまさか部屋をのぞき見ているわけにもいくまいよ。伊仁は何も悪くないのだ」  群狗はゆっくりと立ち上がり、肘《ひじ》掛けに立てかけておいた長剣を手に取った。どうかよろしくお願いしますっ——再び平伏して発したらしい下向きの声を背中に聞いて、群狗は軽く手を上げてそれに応える。  ——さて、  急ぐ風もなく歩きながら群狗は考えを巡らせた。どこから探したものか。部屋にこもった直後から屋敷を抜け出していたのだとすれば、かなり遠くまで行っているかもしれない。ああ見えて肝心|要《かなめ》の土壇場《どたんば》では意外と思慮《しりょ》深いところもある月華のことを、群狗はそれほど心配はしていない。だが、使用人たちの立場もあるし、万が一ということもある。あまり遅くならないうちに連れ戻しておきたい。  元都の空は、ひどい夕焼けだった。  意識が遠い過去にまだ片足を残しているらしい——群狗の目には、巨大な雲の絡み合う夕空の色が砦を焼き尽くした炎に見える。大きく息をついて再び地上に視線を戻すと、庭先に植えられたひと群れの花が目に入った。  丈は群狗の腰ほど。根元から放射状に伸びる細長い葉。  一様に昼の花である弧仙花《こせんか》の同族たちの中で、あの花だけは夜に蕾《つぼみ》を解く。  月華とは、あの花の名に由来する渾名《あだな》である。  群狗がこれから探しに行こうとしている少女もまた、群狗と同様に数々の名を併《あわ》せ持つ。群狗のそれは敵の目を眩ますための化けの皮であるが、少女のそれは権謀術数《けんぼうじゅっすう》がとぐろを巻く宮中にあって政治的な命脈を保つための威嚇《いかく》の牙である。  少女は卯王朝の第十八皇女であり、正式な本名を「禁呪迷魔発 畏山 卯皇尊珀礼門天詩操宇慎望神狗守康倫下清姫 敬海 禁呪迷魔結」という。    後継者たち  力剛《リーゴン》は乱世の拳達《けんたつ》であった。  幼い頃から寝食を忘れて修行に励《はげ》み、その功夫《くんふー》たるや同門の兄弟子たちすら遠く及ばぬほどとなったある日、ついに師はその努力を認め、指一本のひと突きで鬼をも絶命せしめるという伝説の魔拳——一指功の秘《ひ》奥義《おうぎ》を力剛に授ける。ところが力剛は秘奥義を授かるや、清廉《せいれん》な拳士の仮面をかなぐり捨てて、大恩ある師を始めとする一門の郎党を皆殺しにしてしまうのだ。それは力剛が幼少の時分から企《たくら》んでいたことであり、門派の技の血統を当代限りに根絶やしにして、一指功の絶技を独り占めにするためだった。 「な、何たる卑劣漢《ひれつかん》! 群狗を差し向けて成敗してくれる!」  力剛は道場に火を放って野《や》に下ると、たちまち盗賊団の大親分へとのし上がって悪逆非道の限りを尽くす。が、とある尼僧《にそう》の法力に敗れたことが力剛の運命を大きく変えた。それまでの行いを深く悔いた力剛は両の拳《こぶし》を二度と使わぬという誓いを立て、自分が手にかけた者たちの供養《くよう》に残りの生涯《しょうがい》を費やすことを決意する。山深い荒れ寺にこもって俗世との一切の関わりを絶ち、読経《どきょう》に明け暮れる日々の中に力剛はようやく心の平安を見出《みいだ》したのだ。 「む。——そ、そういうことならまあ、勘弁してやらんでもない」  そうして数十年が過ぎ、力剛も老人となった。かつての隆々《りゅうりゅう》たる筋骨はすでに枯れ木の如く痩《や》せ衰え、勾《かどわ》かした娘たちさえも見惚《みほ》れた美髯《びせん》も今は白く伸び放題となってしまったが。その心中はかつて無かったほど清々《すがすが》しく穏やかである。手にかけてしまった者たちも一人残らず成仏《じょうぶつ》を果たしたであろう。自分とてもう長くはあるまいし、さりとて残り少ない寿命が尽きた暁には閻魔《えんま》様に寛大なお裁きを賜《たまわ》ろうなどというつもりもさらさらない。無間《むげん》地獄に落ちてようやく力剛の償《つぐな》いは完成を見るのであり、今となってはむしろその日が待ち遠しくさえある。早くお迎えが来んものか——力剛がそんなことを考えていると、指先からむくらむくらと湧き立つ真っ白な煙!  銅鑼《どら》が打ち鳴らされた。  東祭門の市場——などと畏まるよりも、「右の袋」という通称の方が町人たちの間では遥かに通りがいい。「左の袋」と呼ばれる西忌門の一帯が古くは軍放出の刀剣の売買に端を発する古物市場であるのに対して、こちらは食い物の屋台を中心に多種多様な露天が犇《ひしめ》く万《よろず》の市場である。奇術師や猿回し、軽業《かるわざ》使いに見せ物師といった大道芸人たちの多くが左よりも右の市で商売をする理由もまた、嵩張《かさば》る荷物に閉口しながら家路に就こうとしている客よりも、腹もくちくなったところに二、三杯ひっかけた客に当然の勝算を見出しているからだろう。  その一角、辻《つじ》の雑踏を相手に「一指力剛」の芝居を演じる一座があった。舞台のかぶりつきは幼子たちの指定席と相場は決まっていたが、その少女は、幼子と呼ぶには随分と薹《とう》が立っている。面立ちには若干《じゃっかん》の幼さを残しているものの、横一列にしゃがみ込んでいる童子童女たちの中でもひときわ頭抜《ずぬ》けているその背の丈からすれば歳の頃はどう若く見て十四、あるいは十五。身なりの良さでも周囲の子供たちとは天地の開きがあって、妹や弟の駄々につき合わされている良家の子女という風でもない。  当初、一座の者たちはそれでも、その胡乱《うろん》な少女をどこぞの名のある豪商の娘か何かであろう程度に考えていた。が、それにしても様子がおかしい。そもそも「一指力剛」は芝居としてはすっかり手垢《てあか》にまみれた演目なのだ。裕福な商家の娘であれば、こんな辻舞台など比較にもならぬ豪奢《ごうしゃ》な劇場で名だたる名優たちが演ずるそれを十回も観《み》ているはずではあるまいか。現に周囲の子供たちの中にさえ早くも退屈してきた者があちこちにいて、あさっての方を見ながら鼻くそをほじったり足元の牛糞を素手で捏《こ》ねたりしている。しかし、その少女はまるで芝居というものに生まれて初めて触れたかのような顔で芝居を見つめ、そこで何かが起こる度に飛び上がらんばかりの反応を見せるのだ。弁士が語りに勿体《もったい》をつければその場にしゃがみ込んだままもじもじと身じろぎをし、戦いが始まれば舞台に身を乗り出して奇妙な言葉|遣《づか》いで善玉を応援し悪玉を痛罵《つうば》する。それこそ役者|冥利《みょうり》と言えばまあそうなのだが、あまりに素直すぎる少女の反応に演者たちはだんだん薄気味が悪くなってきた。弾け上がった煙幕に紛れて力剛役の男がちらりと横目を走らせると、少女は話の急展開に度肝《どぎも》を抜かれて目を見開いたまま声もなく固まっている。精妙な刺繍《ししゅう》が施《ほどこ》された着物の裾《すそ》に、隣の子供が牛糞まみれの両手をごしごし擦《こす》りつけていることにもまたく気づいていない。ちょっと足りないのか?——力剛役の男がそんな風に考えたのも無理からぬ話であった。  指先からむくらむくらと湧き立つ真っ白な煙!  さえは狐狸《こり》の悪戯《いたずら》か、はたまた如何《いか》な妖怪変化《ようかいへんげ》の仕業かと驚き慌《あわ》てる力剛の目前で、白煙はたちまち若い女へと姿を変えた。誰何《すいか》する力剛に女は応えて曰《いわ》く、我が名は「一指功」なり。あろうことか、女は一指功の拳訣《けんけつ》の化身であった。力剛の身につけた技が人の姿を得て力剛自身の前に現れたのだ。すっかり顔色《がんしょく》を無くす力剛に女は滔々《とうとう》たる恨《うら》み節、曰く——すべての生きとし生けるものがそうであるように、我ら�技�もまた、人から人へと移り行く中で変容を繰り返し、その複雑さを増していく「生ける物」である。しかし、お主《ぬし》はかつて我が同門の技を根絶やしにした挙句、今度は唯一の生き残りである我を巻き添えに死のうとしている。そのような身勝手が許されるものか。今すぐ山を下り、我を習い覚える充分な器《うつわ》の持ち主を探し出して、その者に我を伝授せよ。  力剛必死の抗弁、——そう言われても、私は拳を再び使わぬという誓いを立ててしまったのだ。しかも私の寿命は明日にも尽きるかもしれん。今になってそのような無茶を言いに来られても困る。  すると女曰く、——ならば我にも考えがある。お主は無間地獄に落とされるが終生の念願であったな。もし我をこの世に残さずに死ぬようなことがあれば、この指[#「この指」に傍点]がお主の舌を千切りとってやる。お主は口がきけぬまま閻魔大王の前に引き出されるのだ。そこで我は、この者はかつての罪がその魂を洗い清めた比類なき聖人であると横から口添えをして、お主を極楽浄土に送り込んでくれようぞ。  力剛は青くなった。——それは困る。地獄に落とされなければ私の償いは終わらないのだ。  しかし女はにべもない。——いいや、きっとそうしてやる。  我を伝え残せ。  さもなくば極楽送りだ。  かくして力剛は山を転げ降りたのだった。寿命が尽きる前に相手を見つけて技を託さねば極楽往生させられてしまう。果たして一指功を習得するだけの才能の持ち主は見つかるのか、力剛は見事地獄に落ちることができるのか。——さてさて、これより続きはまた後ほど。受け持ち決まれば楽屋総出、お囃子《はやし》鳴り物をあしらいまして相つとめますれば、いずれ様にも相変わらずの熱烈なるお手拍子ご声援を賜りますよう、楽屋一同伏してお願い奉《たてまつ》りまする——。  銅鑼が乱打された。  演者たちはそれぞれ見得《みえ》を切って袖《それ》へと下り、芝居はそこで唐突《とうとつ》に終わってしまった。  驚いたのは少女である。まさか、こんな中途|半端《はんぱ》なところで幕が切れるとは予想もしていなかったのだろう。助けを求めるようにおろおろと周囲を見回すが、客たちの誰ひとりとして文句を言う様子がない。子供たちは銅鑼が鳴り出す前からとっとと舞台に背を向けていたし、後方で立ち見をしていた大人たちも適当に小銭を放り投げて三々五々に散っていく。 「こらあーっ!!」  舞台に石ころを投げて叫ぶ少女に、その場を立ち去りかけていた誰もが跳《と》び上がった。 「話はこれからではないか! そんな中途半端なところでやめるなあっ!」 「——おうおう、どちらのご令嬢か知らんが、ちょいと待ちなって」  見かねた客のひとりが、舞台に躍り上がろうとする少女を背後から抱《だ》き止めて、 「昼市の大道芝居は『緒幕《しょまく》』つってな、大抵はこういうもんなんだよ。さんざ引っぱって気を持たせた挙句に『続きはまた後ほど』で、ちょん。——まあ、夜も更《ふ》けてからの本幕の宣伝が半分に、役者連中の肩慣らしが半分ってとこだな」  少女はすがるような目つきで男を振り返って、 「夜も更けてからでは間に合わん! 妾《わらわ》は夕方までしかここに居《お》られん!」 「——そ、そんなこと言われたってよ」  うぅ、  ひと声|呻《うめ》いて、少女の顔が今にも泣き出しそうに歪《ゆが》んだ。  両のこぶしを握り締め、悔しげな呻き声に合わせて身体が揺れる。  そして、一体何事かと見守る衆目の只中で少女はまことに奇怪な行動に出た。両足で一緒に地団駄《じだんだ》を踏みながらその場でぐるぐる回り始めたのだ。 「うぅ〜〜!! うぅ〜〜!! うぅ〜〜!!」  回る回る。  ものすごく悔しそうにばたばたぐるぐる回る。  そのとき、 「月華っ!」  名指しで呼びかけられた途端に月華は我に返った。ぐるぐる回っていた身体が糸を切られた傀儡《くぐつ》のように危なっかしく傾いで止まり、人垣《ひとがき》の隙間から安ぴかの腕輪をじゃらじゃらと絡みつかせた女の腕が伸びて月華の首根っこをぐいと掴む。 「——ったくもう、こんなとこにいたの」  腕輪の主は辻の芝居には少々過分な銭を舞台に放り投げ、月華を人込みの中から強引に引き離す。事態を遠巻きに見守っていた寧馬幇の地回りたちへの愛想《あいそ》笑いも抜かりはなかった。連中としてもいきなり荒事に及ぶ気はなかっただろうが、月華がこれ以上ごね続けるようなら捕まえて市場から叩《たた》き出すくらいのことはやったかもしれない。 「あんたねえ、あたしが戻るまで待ってろって言ったでしょ?」  口答えも出ないほど意気消沈して歩き出す月華を横目に、珠会《シュア》は深いため息をついた。  そういう世間ずれした仕草はひどく大人びた風ではあるが、実際の年回りは月華といくらも違わない。肩を落としてとぼとぼと歩く月華の背中を見ているうちに、そのため息もやがて苦笑へと変わった。一緒に街を歩けば悶着《もんちゃく》ばかり起こす月華の、まるで赤子のように無垢《むく》な性格を珠会はどうしても嫌いにはなれないのだ。  月華と珠会は今年の正月、祭りの屋台にひとつだけ売れ残った肉《にく》饅頭《まんじゅう》をどちらが買うかで見物人が出るほどの大喧嘩《おおげんか》をして以来の仲である。以降、月華は屋敷を抜け出すとまず真っ先に珠会の住まうおんぼろ長屋を訪れるようになった。もっとも、珠会は「仕事で留守」にしていることも多かったのだが、その長屋にくたびれた様子の年増《としま》ばかりが住んでいる理由も、目と鼻の先には廓《くるわ》が軒を連ねる一帯があることの意味も、世間知らずであることにかけては決して人後に落ちぬ月華はまったく理解していない。一方の珠会は、「主に饅頭を扱う商人の娘」という月華の拙《つたな》い出まかせをまさか信じてはいなかったが、さては珀礼門清姫様か、などという考えもまた、救い様のない現実に生きる珠会にとってはさすがに突飛に過ぎている。そもそも、第一第二あたりまでならばともかく、第十八皇女の顔と名前を弁《わきま》えている平民など端《はな》からいるはずもないのだった。  月華がぽつりと、 「——あんまりではないか」 「何が?」 「あれで終わりなどと、あまりに殺生《せっしょう》ではないか」 「ねえ、あんたまさか、芝居を見るの初めてだったの?」 「——父上が、そういうことには厳しいのだ」  そういうことには厳しい父上。  言動の端々から月華の正体を想像するのは珠会の密《ひそ》かな楽しみになりつつある。目下、珠会が最もありそうだと踏んでいる線は、お城への出入りを許されている大臣の妾腹《めかけばら》、というものだった。芸事に否定的な頭の古い頑固者——ということは、大臣は大臣でも軍のお偉方《えらがた》か、お城の縁起事を取り仕切る僧籍者《そうせきしゃ》。珠会はそんな連想をする。当代の卯王が三十年も昔に発した臣の奢侈《しゃし》を禁ずる勅命《ちょくめい》などは、やはり珠会の視野の埒外《らちがい》であった。 「——あのね、夕方より前の辻芝居って、言ってみれば通しの稽古《けいこ》を客が勝手にのぞいてるようなもんなのよ。途中で終わっちゃうこともあるし、だからむこうも木戸銭《きどせん》よこせなんて言わないけどさ。でもね、やっぱり大店の娘ともなれば、ああいう所ではそれなりの祝儀は投げてやらなきゃ格好ってもんが——、なにそれ。転んだの?」  珠会が指差したのは月華の衣《ころも》の裾だ。月華は何気なく視線を落として、 「わ。ああっ!」  蔦草《つたくさ》に絡む蟒《うわばみ》の刺繍が牛糞で見るも無残に汚れていた。まったく身に憶えのない凶事に月華は愕然《がくぜん》とする。薄く黄色味のかかった白地に見事な刺繍が入ったその略装衣《りゃくそうい》は、月華が街に出るときに身に着ける服の中でも一番のお気に入りだったのだ。 「——う。うう、」 「ほらまた回ってる回ってる、——ああもう、じっとしてなさいよ」  珠会が裾を拭《ぬぐ》ってくれていることも上の空で、月華は口をへの字に曲げて己が不運をじっと噛みしめていた。  せっかく屋敷を抜け出してきたというのに、今日はとことんついてない。  空にはすでに夕刻の気配が忍び寄りつつある。お作法の稽古をすっぽかしたことはとっくにばれているだろうし、群狗はもうその辺りまで来ているかもしれない。日が暮れる前には戻るつもりで屋敷を出てきたが、こんな気分のままでは戻るに戻れない。 「ん」  目前にいきなり棒刺しの飴菓子《あめがし》が現れて、月華は目を丸くした。  見れば、珠会は自分の飴を丸ごと口に突っ込んだまま、財布の紐を片手でくるくると振り回して器用に結び直している。通りがかりの飴屋から買ってくれたものらしい。 「——あ、」  珠会に街を案内してもらうときは月華が金を払う、という約束である。しかし珠会はくわえ込んでいた飴をちゅぽんと引っぱり出して、 「いいってこれぐらい。たまには奢《おご》らせてよ」  飴の棒を受け取り、礼を言いかけたところで月華は再び口ごもった。それを見ていた珠会がおかしそうに肩を震わせる。「苦しゅうない」という言葉は使わない、というのも二人の間の約束なのだ。 「——あ、ありがとう」 「はい。どういたしまして」  珠会と肩を並べて、飴を舐め舐め通りをひやかして歩くうちに、月華の気分も少しはましになってきた。花売り、鼠《ねずみ》使い、果物の屋台、辻占い、玩具《おもちゃ》売り、露天の茶屋で将棋盤《しょうぎばん》を見つめる真剣師たち。街に出た月華を魅了するのはいつも、屋敷の退屈な灰色を五色に染めてくれる往来の華《はな》やぎと色彩の洪水《こうずい》である。 「そうだ、」  月華の顔が明るんで、 「さっきの芝居は夜に続きをやると言っておったから、珠会は今夜にでもそれを見て、妾は次に街に出たときに珠会の口から話の筋を語り聞かせてもらえばいいのだ。珠会は話がうまいからな、直《じか》に芝居を見るよりその方がきっと、」 「駄目よそんなの。あたし夜は忙しいもん」  せっかくの思いつきを返す一刀で拒否されて月華は見る見るうちにしおれた。その顔を珠会は下からのぞき込んで、 「なに、まだ芝居の続きが気になってたの? そんなに面白い話だった? 何て芝居?」  月華はしょんぼりと、 「——題名は忘れた。一本指で鬼をも倒す男が、師匠《ししょう》を殺して盗賊の頭《かしら》になって、 「一指力剛?」  月華は呆気にとられて珠会を見つめた。 「知っておるのか?」 「たぶん、そのへんの小さい子でも知ってると思うけど」 「ならば話は早い! 続きを聞かせてくれ!」 「え〜〜、」  だってあれ長いし——と一度はぐずった珠会だが、餌《えさ》を取り上げられそうになっている子犬のような月華の眼差《まなざ》しに結局は負けて、 「——で? 続きってどこから?」  できればもう一度最初から、と思う月華であったが珠会にへそを曲げられては元も子もないので仕方なく妥協する。珠会は珠会で、力剛が山を降りる下りから、と聞いて内心なるほどと思った。そこで幕を切られたのでは確かに後生《ごしょう》が悪かろう。 「——つまりね、あれって笑い話なのよ。力剛が何十年ぶりかで山を降りてみると、下界はもうとっくに太平の世の中になってて、そんなところにのこのこ帰ってきた力剛なんてただのしょぼくれた宿無しのじじいでしかないわけ。みんなきれいな着物着てておいしい物食べてて、ずっと昔に力剛っていうおっかない盗賊の親玉がいたことなんてだーれも憶えてない」  珠会は宙に視線を彷徨《さまよ》わせ、飴の棒を指先で回しながら歩き語りに語り出す。 「それでも、拳の精霊《せいれい》は技を習得できるだけの才能の持ち主がどこにいるかが神通力でわかるのね。力剛は自分の指に引っぱられて国中を駆けずり回って、命からがらたどり着いた場所はとあるお大尽の屋敷の前でさ。そのときちょうど門が開いて、その屋敷の馬鹿息子が綺麗所《きれいどころ》を侍《はべ》らせて出てくるんだけど、これがもう飲めや歌えの毎日に首まで浸《つ》かった百貫でぶ。生まれてこの方|箸《はし》より重いものなんか持ったこともないって手合いよ」  月華は他愛《たわい》もなく興奮して、歩き続けている珠会の周りをうろうろと行きつ戻りつしながら夢中で話を聞いている。珠会としてもここまで新鮮な反応をしてくれれば興も乗ってくるというものだが、それと同時にちょっと意地悪をしてやりたいという気持ちも首をもたげる。わざと間を置いて、月華が苛立《いらだ》たしげに顔をのぞき込んできた瞬間にへらっと視線を逸らし、 「——さてさて、これより続きはまた後ほど」  月華は物も言わずに珠会の背中をばしんばしん叩いた。珠会は嬉《うれ》しそうに痛がりながら、 「ところがね、拳の精霊はその百貫でぶこそ探していた相手だって言うの。力剛も初めはまさかと思うんだけど、老いたりとはいえ力剛だってものすごい達人には違いないから、馬鹿息子のぶくぶくに肥えた身体の中に磨《みが》けば光る才があることに気づいちゃう。力剛としてはもう必死よね、馬鹿息子の行く手に跪《ひざまず》いて地べたに額をこすりつけるとさ、そんなの知らない人が見たら金持ちの旦那《だんな》に絡んでる物乞《ものご》いのじじいよ。門番が飛んできて追っ払われそうになるんだけど、馬鹿息子は酔狂で話を聞いてくれるの。  ——私の目に狂いはありません。貴方《あなた》こそ万人が一の逸材、我が一指功の絶技を受け継ぐに足る才を持ったお方。この技が当代で失伝するかと思うと私は死んでも死にきれないのです。  で、話を聞いた馬鹿息子は、力剛に三つの質問ををするのね。  その一指功とやらを身につければ、女にもてるようになるのか?  ——恐れながら、そうはなりません。一指功は真の武芸にござりますれば。  では、一指功を身につければ金持ちになれるのか?  ——恐れながら、そうはなりません。一指功は真の武芸にござりますれば。  では、一指功を身につければ腹が一杯になるのか?  ——恐れながら、そうはなりません。一指功は真の武芸にござりますれば。  ならば、その一指功とやらは天下万民にとって無用の長物《ちょうぶつ》だなあ。  馬鹿息子はそう言って、大笑いしながら綺麗所を引き連れて酒を飲みに行っちゃう。だけど力剛だってそう簡単にはあきらめきれないよね。なにせ極楽往生させられちゃたまんないからさ、馬鹿息子の行く先々につきまとってあの手この手で技を教えようとするわけ」  話を吟味《ぎんみ》していた月華はふと、それのどこが笑い話なのだ?——という目を珠会に向ける。  珠会もまた、ここまで聞いてなんで笑わないのかしら?——という目で月華を振り返る。  すでに右の袋の外れ近くまで来ていた。どちらからともなく足を止め、互いに何となく横目で見つめ合う二人の間を風鈴の担ぎ売りがのんびりと通り過ぎていく。そのとき、珠会の視線が泳いで月華の顔から外れ、何やら重大な物を見つけたかのように固く焦点を結んだ。 「——ごめん、やっぱり続きはまた今度ね」  どうやら今度は冗談ではないらしい。珠会の視線をたどった先、二つ奥の裏路地を行く白装束の行列が月華の目に入る。先頭は鈴つきの禁呪布《きんじゅふ》で飾り立てられた駱駝《らくだ》、そのすぐ後ろに経を誦《ず》しながら歩く和尚《おしょう》、香炉《こうろ》振りの小坊主に柝《き》鳴らしの小坊主、次いで喪主《もしゅ》と思しき老婆《ろうば》と参列者たちが続く。装束の白は武門の葬送《そうそう》に特有の色だ。  葬式行列だった。  月華は幼い頃に、十七で身罷《みまか》った兄の大葬に参列したことがある。裏路地を行く白ずくめの葬儀の列は、大旺殿で行われた「忌送行」の様式をごく簡略化したもののように月華には思える。しかし、宮庭を埋め尽くす絶縁旗の壮麗さも一千の楽師たちが奏《かな》でる退魔の調べも伴わないその葬列はかえって現実離れして、月華の目にはまるで、夕刻の日常の狭間を歩く人外《じんがい》の行進のように映った。あの裏路地は地獄にまで続いているのかもしれない。  月華は少し怖くなって珠会の腕にすがりつこうとするが、珠会はそれどころではないとばかりに月華を振りほどき、 「ああもう、まいったな、すっかり忘れてた。ごめんね月華、あたしすぐ戻らなきゃ」  珠会の慌てぶりが月華にも乗り移って、 「なんだ、どうしたのだ? ——よもや、あれは誰ぞ御身内《おみうち》の、」  珠会は笑って、 「違う違う、死人が出たらあたしら稼ぎ時なの。この埋め合わせは倍返しでするからさ、一人で帰れる? 大丈夫だよね? それじゃ!」  珠会は一方的にそう言い置いて踵を返した。訳もわからぬままに取り残された月華は、たちまち人波に紛れていく珠会の後ろ姿を呆然と見守るより他にない。 「——まったく、忙しい奴じゃ」  ふん。いかにも強気に鼻を鳴らしたのは心細さの裏返しだった。綺麗な前歯で飴をひと口|齧《かじ》り、月華は回れ右をして市場の雑踏を敢然と遡《さかのぼ》っていく。一人になったのを潮に屋敷に戻ろうかという気も起こらぬではなかったが、そんな怖気《おじけ》を絶対に認めたくないという意地に背中をぐいぐい押されていた。  一人で帰れるか?  ふん。帰れるに決まってる、人を馬鹿にするにも程がある。かくなる上は自分一人だけで楽しいことを見つけて、次に会ったときには土産話《みやげばなし》のひとつでもしてやらないことには気が治まらない。考えてみれば、今すぐ帰ろうが夜も更けてから帰ろうが侍従長のねちっこいお小言に絞られるのは一緒なのだ。その対価が生殺しの芝居と棒刺しの飴だけではまったく割に合わないではないか。  末妹というほど気楽でもない。  長姉であればこんな中途半端な懊悩《おうのう》を抱《いだ》く暇がそもそもなかっただろう。  第十八皇女とはそんな、まるで平民と王族の悪いところだけを寄せ集めたような、実に微妙な立場なのだった。万事に不自由を強《し》いられる割には強権を振り回して憂《う》さを晴らせるわけでもない。宮中の公用語である馬厨方言は月華にとっては外国語に等しく、太古の慇懃無礼《いんぎんぶれい》が化石化した宮廷作法は複雑怪奇な舞踏に他ならず、物心もつかぬうちから徹底して叩き込まれてきたそれらの「お行儀」を御前で実際に試される機会が、果たして一生のうちに何回あるというのだろう。  我が身を苛《さいな》むこの不自由さとはすなわち、人形の不自由さである——月華はそんなふうに思うことがある。その生涯のほとんどを蔵《くら》の中で身じろぎもせずに過ごし、宮廷で重要な祭事があるときだけ蔵から引っぱり出され、大急ぎ埃《ほこり》を払われて末席にちんまりと座らされる。話しかけられた時だけ口をきき、百八種類「八方寿」のお辞儀の仕方さえ弁えていれば取り敢えずは格好がつく、「無作法を働かないこと」以外は何ひとつ期待されない生き人形だ。  そんなものになり果てるくらいなら死んだ方がましであったが、そうした境遇から逃れる術がないこともよくわかっている。  かくして、感情が激すると地団駄を踏みながらぐるぐる回ってしまう姫君が誕生した。月華自身もその奇行をものすごく恥ずかしいことだと思っているし、今夜もまた、大勢の前でぐるぐる回ってしまったことを寝床の中で思い出して、頭から布団《ふとん》をかぶって羞恥《しゅうち》と後悔に身悶《みもだ》えするに違いない。宮廷作法においては、怒りや悔しさといった感情表現までもが所定の動作として完全に様式化されている。幼少の砌《みぎり》から皇女としての教育を受けてきた月華にもそうした所作は骨の髄《ずい》まで染み込んでいるのだが、月華はその一方で、そんな作法は窮屈《きゅうくつ》で退屈で面倒で下らないと思う自我を、卯室の王族としてはほとんど精神的な奇形と言えるほどはっきりした形で残している。その結果、ひどく感情が高ぶるとその双方が月華の中で衝突し、複数の所作が混ぜこぜになった挙句の果てに、「地団駄を踏みながらぐるぐる回る」という当人にも訳のわからぬ動作となって暴発するのだった。  過去、月華が城内でぐるぐる回ったのは一度や二度ではなかったし、それ以外の細かな失敗を挙げていったらそれこそきりがない。元都の民《たみ》は卯王の十八番目の娘のことなど何ひとつ知りはしないが、こと城内においては「珀礼門の独楽姫」と言ったら誰もが一度はその噂《うわさ》を耳にする不名誉極まりない有名人である。そもそも「月華」という渾名からして、宮中の口さがない女官たちが言い出した一種の陰口にその端を発している。 「月華」とは、女官たちの雅語《がご》で「思い出し笑い」のことなのだ。  城内での思い出し笑いはとんでもない無作法とされており、その行為の名を直接口にすることさえはしたないというわけで、何かを思い出して一人で笑う様を同族の中で唯一遅れて夜に咲く花の名に喩《たと》えた婉曲《えんきょく》表現なのである。そんな回りくどい渾名をつけられた理由はもちろん月華がしょっちゅう思い出し笑いをするからで、要するに大変ひどい言われようなのだが、言われている当人はその渾名が大層気に入っている。月華は女官たちのそういう持って回った物の言い方が大嫌いだし、それとは別に、月の下で白く可憐《かれん》に咲くその花のことは好きだ。だから屋敷の庭先にも月華を山と植え、気心の知れた相手には「月華」と呼ぶことを推奨《すいしょう》してさえいる。そして、そんな横紙破りがまた要らぬ憶測と噂を招来する。  ほら、また——。  一体何を思い出したのか、飴の棒を未練がましく舐めている口元が「にまっ」と笑った。  珠会に置いてけぼりにされた不安などもう半分は忘れている。ひとたび覚悟を決めたら頭上に迫る夕闇も侍従長の小言もさして気にならなくなってしまった。行く手に現れる角を気の向くままに右へ左へと折れて、ぐるぐる回る「思い出し笑いの姫君」は市場の奥へ奥へと分け入っていく。闘鶏《とうけい》の土俵、証文の代書屋、饂飩《うどん》の屋台、魚の量り売り、八百《やお》屋、床屋、濁酒《どぶろく》の立ち飲み、鋳掛《いかけ》屋、面《めん》屋、  面屋。  月華は足を止め、竹棚に掛けられた色とりどりの面に目を輝かせた。茣蓙《ござ》に座り込んでいた露店の主《あるじ》は染みの浮いた細面をのっそりともたげ、砂塵《さじん》に洗われたようなかすれ声で如才《じょさい》ない世辞を言う。 「お嬢、しょうもない面なんざ被《かぶ》って御尊顔を隠しちまったら男衆みんなに恨まれますよ」  狐《きつね》に決めた。竹棚の端には「御代《おだい》銅七滴」と筆書きされた板切れが吊り下がっている。財布を取り出そうと懐に手を入れて、腹の底がいっぺんに冷たくなった。  財布がない。  掏摸《すり》泣かせの紐を手繰《たぐ》ってみると、革帯の金輪から三寸ほどのところを鋭利な刃物ですっぱりと断ち切られていた。 「——? お嬢、どうしなすった?」  絶望に緩んだ口元から飴の棒が落ちた。露天の主の声が脳裏にわんわんと反響《はんきょう》する。腹の冷たさに心の臓が凍えついてまともに物が考えられない。  なぜ、  どうして、  今日はまだ財布を一度も出していないし、通りすがりの誰かにぶつかられた憶えもぎゅう詰めの人込みの中にいた憶えもない。芝居を見ていたとき?——いや、自分は終始舞台の真ん前にいたし、周囲にいたのは小さな子供ばかりだったはずで、  ——おうおう、どちらのご令嬢か知らんが、ちょいと待ちなって。  月華の顔に、真っ黒な理解の色が広がっていく。  ——昼市の大道芝居は『緒幕』つってな、大抵はこういうもんなんだよ。  あの男。  舞台に躍り上がろうとして抱き止められた、あのとき——  気がついたときには、転げるように走り出していた。  今さら何をしても手遅れであると心の底ではわかっている。男は出来心で盗みを働いたのではない。予め道具を用意するほど常習した掏摸が用済みの狩場《かりば》をいつまでもうろうろしているはずがなかったし、万が一の幸運で男をみつけることができたとしても、財布の中身はとっくに酒に化けて男の腹に収まっているかもしれない。  それでも、走らずにはいられなかった。  財布の紐を開けたとき、男は予想を遥かに下回る中身の貧相さに思わず舌打ちをしたかもしれない。上等な仕立ての財布を売り払った方がよほどましな金になるだろう。  しかし、その貧相な中身は、月華が束の間の自由を購《あがな》うための金だったのだ。  溺れる者の頭を岸から踏みつけるも同然の理不尽に、たとえ一時でもじっとしていたら五体がばらばらになりそうだった。走りに走り、どぶの臭気が立ち込める裏路地から天幕が張り巡らされた大通りへと飛び出した。もうじき日が落ちる。足早に行き交う人々の顔は一転してどれも血も涙もない人でなしに見える。  月華は忙《せわ》しなく周囲を見回した。  芝居の一座がいたあの辻は一体、どちらの方角であったか。        *  道場の師範が死んだ。  武臣倫院がケツ持ちの兵法道場は番手が若いほど筋がいい。はっきり「強い」と誰もが認めるのはまず一|桁《けた》まで。十番台も道場によって色々だが概《おおむ》ね悪くはない。これが二十番台あたりから一挙に怪しくなって、三十番台以降ともなれば師範も弟子もろくなものではないと相場は決まっている。  それでも、他流試合で命を落としたというのならまだしも格好はついたろう。  三十六番手講武所師範、�一刀の朱風《スーファン》�は食あたりでこの世を去った。享年《きょうねん》七十一歳。  まさしく市井《しせい》の評判を地で行く末期《まつご》だと涼孤《ジャンゴ》は思う。  それでも、野垂れ死ぬ寸前のところを道場の下男《げなん》として拾ってくれた師範は、涼孤にとって恩人には違いない。その当時から師範はもう杖《つえ》を片時も手放せぬ一指必倒の老人だったし、涼孤はとうとう�一刀の朱風�が剣を取るところを一度も見ず終《じま》いだった。道場には十日に三度も顔を見せればいい方で、夏の日も冬の日も練武場の柳《やなぎ》の木陰に揺り椅子を持ち出して、起きているのか眠っているのかも分からぬ顔で弟子たちの練習を飽かず眺めていた。  箒《ほうき》を動かす手をふと休めた涼孤の前に、夕日を浴びて今もその揺り椅子はある。  六国大戦で智安《チーアン》将軍の先陣を先駆けたという嘘丸出しの武勇伝が唯一の金看板だった。武術家の大《おお》法螺《ぼら》もここまでくればいっそ見上げたもので、さては我らが師は御歳《おんとし》三百歳か、などという無粋《ぶすい》な揚《あ》げ足を取る者は弟子たちの中にもいなかったと思う。実を言うと、智安将軍の先陣が云々《うんぬん》の与太《よた》はともかく、享年が七十一歳と聞いたときの内心の驚きは今も涼孤の胸に冷めやらぬものがある。まさか三百歳ではなかったにせよ、あれほど説得力のある年寄りを涼孤は他に知らないのだ。やはりそこに騙《そこ》されるのか、師範は地方の成金連中に武術指南役として招かれて道場を留守にすることがしばしばあった。ついひと月ほど前にも、元都の外西門を発《た》つ師範を一門総出で見送ったばかりだったのだ。ひと足先に帰ってきた兄弟子の話によれば、招聘《しょうへい》先の商家で雇いの※[#かねへん+票、読みは「ひょう」]師たちを相手にいつもの精神訓話もどきを垂れ、ほとんど詐欺《さぎ》のような過分の礼金を受け取って元都に戻る途中、旅籠で夕食を摂《と》った後に腹が痛いと言い出して、それから先は本当にあっという間だったらしい。町医者に言わせれば「油にあたった」とのことだったが、油にあたろうがあたるまいが、いつ何が起きてもおかしくない年齢であったこともまた確かであろう。旅籠に残った一番弟子は客死の厄払《やくばら》いに師の馬を殺し、町医者の手で三つの甕《かめ》と一つの棺《ひつぎ》に分けられた師の亡骸《なきがら》と共に道場に戻ってきた。  それが、昨夜遅くの出来事だ。  葬式に出かけた弟子たちはまだ誰も戻ってきていない。貴様は掃除でもしていろと一人残された道場で、手持ち無沙汰《ぶさた》に耐えかねて始めた練武場の掃き掃除は物思いに阻まれて一向に終わらなかった。  葬式に出られなかったことは、大して残念だとも思わない。  その程度の爪弾《つまはじ》きは毎度のことである。  ただ、誰も手の施しようがないほどの嘘を周囲に張り巡らせていた師範の孤独をわかってやれる者が、実際に葬式に顔を出している面々の中に果たして一人でもいるのか、それだけが気がかりだった。  主を失った揺り椅子を見つめ、次いで西方の夕空に涼孤は目を細める。  師範とて死にたくて死んだわけではあるまい。死人はただひたすら死ぬのみであって、後は残された側がその空白をどう納得するかの問題だ。死人の心情を斟酌《しんしゃく》するなど愚《おろ》かで無意味で大きなお世話なのかもしれないが、あんな椅子ひとつを残して死なれたら嫌でも考えずにいられなかった。——晩年を剣先ではなく口先で生きたあの老人は、最後の旅の空で、一体どんな気持ちで、  背後。  考えるよりも先に旋転し、両腕を交叉《こうさ》させて身体の中心を守るよりも早く「それ」が無害なものであることを見て取っている。果たして涼孤の右手が受け止めたものは、まだほっこりと湯気の立つ大きな肉饅頭だ。 「ぉおっ?」  世にも見事な禿《は》げ頭が、してやったり、という笑みを浮かべた。  一番弟子の蓮空《デクー》だった。家に立ち寄ってきたのか、白ずくめの喪服を小汚い普段着に着替えている。実際には二十歳《はたち》そこそこのはずが十も老《ふ》けて見えるのは、子供の頃に熱病を生き延びて禿げ上がったというその頭のせいか、それとも両の頬《ほお》に刻まれた深い笑い皺《じわ》のせいなのか。 「習わぬ経にしちゃあ見事なもんじゃねえの。えぇ涼孤よ?」  涼孤は大きく息を吐く。通りすがりに足元を払ってきたり、話している最中にいきなり木剣で打ち込んできたり、蓮空はしばしば涼孤を試すような真似をするのだ。 「——もお、やめてくださいよこういうの」 「馬鹿ぬかせ。恥を知れ。もったいなくもいやしくも、御上《おかみ》より厠の汲《く》み取り代金を頂戴《ちょうだい》している道場で何たる言い草だそれは」  そうは言っても涼孤は正式な弟子ではなく下男である。この道場に通うのは剣術の修行をするためではなく、掃除や洗濯などの雑事をこなして幾許《いくばく》かの給金を貰《もら》うためだ。  立ち食いも何なので、涼孤は茶を沸《わ》かして練武場の塀《へい》沿いの長椅子に運んだ。  蓮空は涼孤の隣に腰を下ろすなり、がはあ、と吠《ほ》えるようなため息を吐いて、 「ったくよ。今度という今度はさすがの俺様もまいったわ」 「——お疲れ様でした」 「おう。それよりも悪かったな、留守番なんかさせちまって。お前も弟子のうちってことにして混ぜちまおうって言ったんだが、ごちゃごちゃぬかす奴らがいてよ。ったく、誰とは言わねえけど」  涼孤は首を振って、 「多分、みんな先回りして気を使ってくれたんだと思います」 「お前なあ、それ本気で言ってんのかよ? あいつらがそんなタマだと思うか?」  思わない。  思わないが、自分が民族的な汚物であるという自覚と周囲の白眼視こそは涼孤の十五年間の人生そのものである。正直なところ、熱血漢の蓮空が時に振り回す「正論」は、その他大勢に踏みつけにされるよりもむしろ重荷に感じられることがあった。涼孤は曖昧《あいまい》な視線を周囲の光景へと逃がす。 「——これから、どうなるんですか。この道場」  片手に余るほどの大きな饅頭を蓮空は早くも平らげると、 「どうもなりゃしねえよ。そのうち御上が誰か代わりを寄越《よこ》すんだろうが、んなもん一体いつになるか分かりゃしねえからさ、俺と背守《セス》と、それに面弟《マンデ》あたりか。そのへんでどうにか回していくしかねえだろうな。それよりお前だ」 「は?」 「お前こそどうすんのよこの先。右の袋のどん詰まりで似顔絵|描《か》きするだけじゃ食ってくのもきついだろ」 「ええっ!?」  長椅子から飛び上がった拍子に、まだ半分も残っている饅頭を取り落としかけた。 「お、おれ、下男を馘《くび》になるんですか!?」 「ならねえよ。ならねえけどさ、師匠がいきなりおっ死んじまったからなあ、次のが来るまでちゃんと給金が出るかどうか——」 「そんな、だって、師範の分と俺の給金とは別なんでしょ?」 「別だよ。別だけどさ、まず貰えんと思って動いた方が間違いはねえって。師匠が金を取りに来なくなったのをこれ幸いとばかりに、木《こ》っ端《ぱ》役人どもが寄ってたかって懐に入れちまうはずだ。連中がお前の取り分だけ残しておいてくれると思うか?」  涼孤は目を閉じて、しばし呼吸を止める。  ——いつものことだ。  その一念で、呆気なくあきらめはついた。  やおら饅頭にがぶりと噛みつく。仕方がない、次の師範が決まるその日まで只働きだ。たとえ給金を貰えなくても、この道場から追い出されたくはない。 「けどな、物は考え様だ。師匠がおっ死んでくれたのは、お前にとっちゃあまたとない好機かもしれん」 「——好機って? 「お前さ、このどさくさに紛れて正式にこの道場に入門しちまえよ」  いきなり何を言い出すのかと涼孤は目を丸くした。  しかし、蓮空の方は冷静そのものの口調で先を続ける。 「つまりだな、お前が今まで弟子になれずに下男の身に甘んじていたのは、要するに命金が払えないからだろう?」  今も昔も、武術を学ぶにあたって必要なのは一にも二にも経済力である。  武臣倫院が市井の兵法道場に補助金を出しているのは、武術を広く奨励《しょうれい》して兵士として有能な人材を育成するためだ。そうした道場を「講武所」と呼ぶが、その他一般の道場との最大の違いは、講武所においては師範の食い扶持《ぶち》も補助金で保障されているために、弟子は折々の謝礼を払う必要がないという点にある。  しかし、只より高いものはないというのもまた世の常である。講武所への入門を希望する者は、「命金」と俗称される一種の保証金を納めなければならないのだ。修行の後、卯軍への入隊を希望した者にのみこの保証金は還付され、修行期間の長さに応じて最高で兵長までの地位が約束される、という一応のおまけが付く。言い方を変えれば、只で武術を習いたければその対価は命で払え、というわけだ。  高名な師範に高額な謝礼を支払い続けるより遥かに安上がりなこの制度は、とりわけ貧困層に埋もれている才能に対する広範な発掘を可能にする——と期待されてはや五十余年、実際に兵の質が目に見えて向上したかといえば、答えは断じて否であった。それもそのはず、まず第一に補助金程度で雇える師範にろくな者がいないのは道理であったし、そこでまかり間違って才能を開花させた者がいたにせよ、彼らは一人残らず命金など掛け捨ててどこぞのお大尽の用心棒に収まってしまうからだ。この無様な制度が今日まで存続してきた理由は、先の卯王の発案に誰も敢えて異を唱えようとしなかったから、という一点に尽きる。その間、様々な利権が複雑怪奇に絡み合ってじりじりとつり上がった命金の額は、確かに蓮空の言う通り、その日暮らしの涼孤に到底支払えるものではなかった。  しかし蓮空はこともなげに、 「お前は師匠が死ぬ直前に命金を納めた、ってことにするんだ。もし役人どもが何か言ってきたら師匠に全部おっかぶせて知らぬ存ぜぬで押し通せばいい。大丈夫、バレやしねえよ」  涼孤は二の句が継げなかった。  踏みつけにされることに慣れきっている涼孤にとって、その種の大胆不敵《だいたんふてき》な発想は確かに精神的な盲点と言えた。なるほど、役人どもがこの道場の補助金を着服するというのなら、その銭勘定の杜撰《ずさん》さはこちらにとっても充分につけ入る隙となるだろう。  ——だが、  道場の下男としての給金が貰えなくなることに変わりはないのだ。この先まともに食っていけるかどうかもわからないのに、その上さらに修行など—— 「何考えてるかわかるぞ。お前さえよかったら、俺ん家《ち》に居候《いそうろう》させてやってもいい。雨漏《あまも》りし放題のボロ家だが部屋は余ってるし、手前で言うのも何だがこちとら蛆《うじ》の湧いてる男やもめだからな。掃除に洗濯さえやってくれたら飯くらい食わせてやる」  本気で言っているのか。  涼孤はまじまじと蓮空の顔を見つめたが、そこに見て取れるのは、蓮空が世の悪を弾劾《だんがい》するときにいつも浮かべている義憤《ぎふん》の炎だけだ。 「——駄目ですよやっぱり、みんなが納得するわけないし」 「するさ。次の師範が来るまでは俺様が事実上の師範代だ。もしごちゃごちゃ言う奴がいたら構うこたあねえから半殺しにしてやれ。俺が許す」 「——そ、そんな乱暴な、」  蓮空はいきなり涼孤の肩を掴んで引き寄せると、まるで噛みつくような勢いでこう言った。 「やっとうの道場で乱暴もへったくれもあるか! この際だから言わせてもらうがな、その青い目ん玉を取っ替えでもしねえ限り、お前が言愚《ゴング》だっていう事実は一生ついて回るんだぞ!」  言愚。 「売れねえ似顔絵描きなんざ大概《たいがい》にしろ! いいか、武門では強い奴が正しいんだ。周りの奴らに人間扱いしてほしかったらな、お前はこの世界でのし上がっていくしかねえんだよ!」  幼い日の涼孤は、しばしば自分に向けて発せられるその言葉を「馬鹿」や「間抜け」の一種だと思っていた。  今にして思えばその理解の仕方はそれほど間違っていたわけでもなかったし、その言葉の正確な意味を知ってからは馬鹿や間抜けに憧《あこが》れた。どちらも口を閉じて大人しくしてさえいれば他人にそれと知られることもないからだ。  涼孤は生まれも育ちも元都の貧民街であり、まともな教育などかつて一度も受けたことはないが、大昔に卯が白陽天という国と戦争をして勝ったことくらいは知っている。白陽天が属領となって後、卯に流入していた数多くの戦時捕虜たちは、外見や言葉に大きな違いがないこともあって、様々な迫害を受けつつも卯人の中に同化していったらしい。  唯一の例外は、白陽天の国体が崩壊した後も頑強に戦い続けた山岳民族たちだ。  彼らは元々、白陽天の支配にさえ抵抗していた順《まつろ》わぬ民であり、その一部は現在も流民と化して駐留軍との小競《こぜ》り合いを繰り返していると聞く。生活習慣も信仰形態も白陽天の多数派である天爬人とは大きく異なっており、言語上の類似点から西方の遊牧氏族の末裔《まつえい》とも言われているが、他に類を見ない最大の特徴は十人に一人ほどの割合で目の青い者がいることだ。  鏡など言うに及ばず、顔が映るような澄んだ水にさえ縁のない貧困の中にあって、お前の目は青い、という言い草は涼孤にとって長年の謎《なぞ》であった。  言愚とは、白陽天の山岳民族に対する蔑称《べっしょう》なのだ。 「——あ。その、なんだ」  肩を掴んでいた手から力が抜け、見開かれたその青い目を真正面からのぞき込むことになって、蓮空はひとたまりもなく狼狽《ろうばい》した。 「すまん。口が過ぎた」 「——え、ああ、いや。別にそんな、」  居心地の悪い沈黙が長々と立ち込めた。やがて、蓮空は急に立ち上がると長椅子を力任せに蹴りつけ、 「あぁくそ面白くねえ! こんな肥溜《こえだ》めとっととおん出てやる。見てろよ涼孤、俺は入営したら三段飛ばしぐらいで出世してやるからな」  蓮空はいい男だ、と涼孤は思う。  蓮空がこの道場を肥溜めと呼ぶのはよく分かる。一番弟子に登りつめるまで修行に明け暮れたのは多分、強くなりたかったからではないのだ。蓮空の剣は生活の剣であると同時に、はびこる虚飾を斬り払って「強いか弱いか」という単純かつ清浄な両極にすべてを還元するための手段なのだろう。見上げる涼孤の目に、すっかり日に焼けているはずの蓮空の禿げ頭はなぜか眩《まぶ》しかった。 「とにかく、さっきの話はよく考えとけ。糞どもの目はごまかせても俺様の目はごまかせねえぞ。お前には見所があるんだ。きっちり精進さえすりゃあ、俺様の次の次くらいには強くなれるんだからよ」  そして、人間誰しも最終的には自分が基準である。  蓮空はいい男すぎて、世の中の悪意というものにあまり考えが及ばないのだろう。貧民街出の涼孤ほどではないにせよ、三十六番手の肥溜めに吹き溜まる貧乏人の誰にとっても命金の額はやはり負担なのだ。そんなところに、つい昨日まで道場の下男だった自分が師範の急死に乗じて土足で上がり込んだら一体どんな騒ぎになるか。ごちゃごちゃ言う奴は半殺しにしろと蓮空は言ったが、もし本当にそんなことをしたら連中はその足で武臣倫院へと走り、身の程知らずの言愚が納めるべき命金をごまかして講武所に潜り込んでいると訴え出るだろう。そして、蓮空は絶対にそこまで考えてはいない。 「——さてと、おまえももう帰っていいぞ。さっさとその饅頭食っちまえよ」 「え? あの、みんなが戻ってくるまで留守番してろって言われたんですけど」 「馬鹿かお前。葬式帰りの独りもんが戻ってくるわけねえだろ。あ、」  涼孤が饅頭の残りを慌てて口に押し込むと同時に、蓮空は何事かを思い出して、 「そうだそれだ。一番肝心な用事を忘れるとこだった。感謝しろよ、うまいこと言ってお前の分も貰ってきてやったんだぞ。ほれ」  ぶほ、と涼孤が饅頭に噎《む》せ返った。蓮空が懐から取り出したのは、葬式帰りに喪主から渡される厄落としの雄札だった。 「——ちょ、ちょっと! 何考えてんですか!」 「何って。せっかく土産もってきてやったんじゃねえか、ほれ」  蓮空はそう言って、二枚ある雄札の一枚を涼孤の懐にぐいと押し込もうとする。涼孤はまるで焼け石を押し付けられたかのように飛び上がり、 「駄目ですってば! 葬式にも出なかったぼくがこんなの貰うわけにいきませんよ!」 「そんなもん関係あるか。別に名前が書いてあるわけじゃなし。いいから貰えるもんは有難《ありがたく》く貰っとけって」  蓮空の言う通り、その札の表には朱書《しゅが》きされた死人の戒名《かいみょう》と経文と通し番号しか書かれていない。大きさは大人の掌《てのひら》に少し余るくらい、黄色の香粉が全体に塗《まぶ》しつけられているので「黄札」という呼び方をされることもある。そんな紙切れ一枚の一体どこが饅頭に噎せ返るほどの驚きかと言えば、家に持ち帰ってひと晩|厨房《ちゅうぼう》の隅に貼《は》って翌朝に庭先で燃やす——という雌札と同じ始末の他に。もうひとつの使い道があるからだった。  その札を出せば、廓《くるわ》の花代が只になるのである。  男女の交合に退魔の力があるとする考え方は、卯を含む大仙江流域の国々においては特に珍しいものではない。喪主はとにかく豪勢に札をばら撒き、独身の弔問《ちょうもん》客はその札を使って好きなところで好きなように厄を落とし、客から札を受けた遊廓《ゆうかく》の主が後日こっそり札を返しに行くと喪主は花代に色をつけた礼金を黙《だま》って払う——というのが建前ではあるが、よほど剛毅《ごうき》なお大尽でもなければ到底そんな真似はできないので、実際には喪主が葬儀の段取りのひとつとして特定の遊廓と契約を交わし、発行する雄札の枚数分の枠《わく》を予め割引料金で買い上げておくのである。だから雄札の裏面をよく見ると、喪主と契約を結んでいる遊廓の屋号がある種の暗号でひっそりと書き込まれている。 「はー。�六百貫�ってことは『金灯楼』か、大金灯詩集の全六百巻に引っかけた符丁《ふちょう》だな。金灯楼っていやあお前、ここらの廓にしちゃあちょっとしたもんだぞ。まったく見直しちまったぜ、あのけち婆《ばばあ》がこういう金の使い方をするとは思わなかった」 「駄目です! 困りますこんなの!」  涼孤は札を必死になって返そうとするが、そういう反応を当然の事と予想していたらしい蓮空はにたにたと笑っているばかりだ。 「なんで困ることがある? ——ははあ、それともあれか、お前こういうの初めてか」  涼孤は真《ま》っ赤《か》になった。図星も図星、涼孤は「こういうの」はおろか、どういう女もまだ知らないのである。だから余計にむきになって、 「違、だってそんな! 大体、ぼくみたいなのが廓になんか上がれるわけないでしょ!?」 「誰が決めたそんなこと。試してみたことあるのか? 金の事はもうこれ以上ないくらい綺麗さっぱり片付いてるんだし、もし廓に上げてもらえなくたって他にもやりようはあるだろ。好みの女が出てくるのを待って札を直接渡せば案外受けてくれるかもしれんぞ? 前から聞きたかったんだがな、お前と一緒に歩いてるとすれ違う女がよくこっちを振り返るのは俺の禿げ頭が珍しいからか?」  ばっしと背中を叩かれて、涼孤は青い目の玉がこぼれ落ちそうになるほど慌てた。 「まあいいや。とにかくそれはお前のだ。一発度胸試しに行くもよし、そこらを歩いてる奴に売りつけて何十日分かの飯代を浮かせるもよし。どうとでも好きにしろ」  そして蓮空は大きな背伸びをひとつ、涼孤に背を向けて首の骨をごりごりと鳴らして、 「さあてと、俺様も溜まりに溜まった厄を落としにいくとするか」 「あ。う、」  涼孤は何ひとつ決心のつかぬまま腰を上げ、蓮空の後に続こうとして傍らの箒を片付けなくてはと思い立ち、しかしそれでは蓮空に置いて行かれてしまうと、その場を右往左往する、柳の根元に置き去られたままの師範の揺り椅子がふと目に入って、 「——あ!、あの、」  蓮空はのんびりと振り返って、 「んー?」 「あの椅子、どうします?」  涼孤としては、何でもいいからとにかく声をかけて蓮空の足を止めたかったのだ。その揺り椅子も恩人の形見には違いなかったし、もし処分しろと言われたら後日こっそり家に持って帰ろう——そんなつもりでいた。  ところが、蓮空は涼孤の指差した椅子を遠い目で見つめて、 「あれは、あのままにしておけ」 「——いいから。あの椅子は、この先もずっとあのままでいいんだ」 「そんな。——だって、それじゃまるで、」  まるで、師範が何者かに殺されたかのような扱いではないか。  武門においては、死人の遺品を片付けずにそのまま残しておくというのは「必ず仇《かたき》を討つ」という決意の表明なのである。 「でも、医者の見立ては油にあたったって、確かそう——」 「は。あんな藪《やぶ》医者に何がわかる。そんな話は二度と人前で口にするんじゃねえ」  戯《たわむ》れで言っているわけではない。蓮空の言葉には硬質な真意が隅々にまで透徹していた。 「忘れるな、俺たちの師は�一刀の朱風�だ。六国大戦で智安将軍の先陣を切った豪傑《ごうけつ》だぞ。過去の因縁なんぞ掃いて捨てるほどあったろうし、命を狙《ねら》ってる連中とその手下を一人残らず集めたら洞幡《ドーハン》の演武場にだって収まりきらねえだろうよ。その中の誰かが宿に忍び込んで夕餉《ゆうげ》に毒を仕込んだのさ。�一刀の朱風�は、武人として死んだんだ」  そして、蓮空は元都の夕空そのもののような笑みを浮かべる。 「それでいいじゃねえか。な」  ——な?  涼孤の呆《ほう》けたような表情を訝《いぶか》しんで、蓮空が微かに探るような目つきをした。ようやく涼孤もぼんやりとした笑みを浮かべて、 「——そうですね」  蓮空は小さく頷《うなず》いて踵を返す。 「戸締り頼むな」 「はい」  そして、涼孤は演武場に一人取り残された。  右手に箒を。左手に雄札を握り締めたまま、涼孤はしばらく元都の夕空と向き合っていた。  その青い視線はやがて、柳の根元に佇《たたず》む揺り椅子へと向けられた。涼孤は箒を引きずりながら練武場を横切って椅子の真正面に立つ。座れば身体が擦《す》れる部分だけがほんのりと黒ずんでいて、まるで師範の影が今もそこに蹲《うずくま》っているかのように見える。  ——何のことはない、  言愚の身である自分が同情しなければならないようなことは何ひとつなかったのだ。  極楽に上ったか地獄に落ちたかは知らない。しかし、吐き散らした嘘に立て籠《こ》もって死んでいったあの老人は、蓮空の最後のひと言によって、誰も手の施しようのない孤独からは確かに救い出されたのだと思う。  もしも自分が死んだら、あいつは言愚だったがそれほど捨てたものでもなかったと、そう言ってくれる者が果たして一人でもいるだろうか。  涼孤は高々と箒を振り上げ、�一刀の朱風�の揺り椅子を元都の夕空高く張り飛ばした。        *  それでも、すぐに道を尋《たず》ねてさえいればどうとでもなっただろう。まさか月華の顔や名前は知らずとも、とにかく道行く者を誰彼構わず捕まえていれば、珀礼門にある馬厨様式の古い屋敷を知っている者の一人や二人はたちまち見つかったはずである。  しかし、すっかり気持ちがいじけていた月華にはそれができなかった。  ならばせめてその場を動かず、探しに出た屋敷の者に見つけてもらうのを待つべきだったのに、一文無しの不安と背後に迫る夕闇と、何よりも生まれて初めての迷子《まいご》の恐怖が月華に足を止めることを許さなかった。ここで弱みを晒《さら》したら今度は誰に何をされるかわからぬと思えば素直にべそをかくこともできず、闇雲に歩き回る一歩ごとに取り返しはつかなくなっていき、日が落ちるに及んでいよいよ八方が塞がった。  屋敷どころか、右の袋がどちらの方角なのかさえもう分からない。  よもや、夜の街がこれほど暗いものだとは思わなかった。  上下左右に入り組んだ胡同の果ての果て、緩い下り坂の路傍《ろぼう》に朽《く》ちゆく小さな荷車の陰に身を潜《ひそ》めて、歩き疲れた月華は膝を抱えて鞠《まり》のように蹲っている。風はそよとも吹かず、鼻につく幾通りもの悪臭は百年も前からそうして闇にわだかまっていたのかもしれず、足元の敷石は荒《すさ》み放題のごみだらけで、方々の壁面でせめぎあっている労働|礼賛《らいさん》の標語と体制批判の卑語《ひご》はおどろおどろしい邪教の意匠のように思えた。人の声が聞こえるたびに月華はびくりと身を縮ませる。通りかかる酔漢たちは闇に住まう異人種に違いなく、坂を少し下った先にぼんやりと点《とも》る明かりは——あれは酒家なのだろうか、軒先の露店に集《つど》う男たちの放歌は、狭隘《きょうあい》な両の壁に幾重《いくえ》にも反響して少しも意味のある言葉のようには聞こえない。それはまったく悪鬼どもの酒宴としか思われず、喰らう肴《さかな》はどこぞから掠《さら》ってきた子供の腸《はらわた》に決まっており、たとえ連中が屋敷までの道を知っていたとしても、あの明かりの中に踏み込んでいって物を尋ねるなど頼まれても御免だった。  一世一代の不覚だと月華は思う。  屋敷を抜け出すことを憶えて以来の、最大の失敗だ。  時間の感覚も失われて久しい。すでに真夜中に近いのではないかという気もするが、それもひょっとすると全身に重々しくわだかまる疲労を自ら哀《あわ》れんでいるだけの話で、実際にはまだまだ宵《よい》の口であり、本当の恐ろしい夜はこれから始まるのかもしれないという気もする。  群狗は、今頃どこを探しているのだろう。  胡同の底から見上げる夜空は単なる闇の続きでしかなく、星の光などほんの数える程度しか見当たらない。しかし、群狗も今こうして同じ夜空を見上げているかもしれないという考えに月華はほんの少しだけ慰《なぐさ》められた。まだ小さかった時分に聞かせてくれた星の話はもうほとんど忘れてしまったが、あるいは群狗なら、たったこれだけの星からでも方角を導き出すことができるのだろうか。  突然、腰の辺りに何かがぞわりと触れた。  その瞬間に月華の理性は半分かた吹き飛んでいた。何かいる、ここならまだしもと信じていた荷車の陰に自分以外の何かが潜んでいる。ざらついた剛毛の感触と獣臭《じゅうしゅう》の混じる息遣い、恐怖に臓腑《ぞうふ》を掴まれて背後を振り返ることもできぬ月華の背中に突然、何者かがどっしりとのしかかってきた。  人懐《ひとなつ》こい野良犬《のらいぬ》が構って欲しくてすり寄って来ただけ——などと言っておれるのは昼日中の陽光の下であればの話だ。足元さえおぼつかぬ胡同の闇の中にあって、それはまさしく怪物に他ならなかった。両手両足で荷車の陰から飛び出して、路面の暗がりに隠れていた凹凸《おうとつ》に呆気なく足を取られて顔から転ぶ。痛みなど感じている暇はなく、酒家の軒先に屯する男たちの歌声がぴたりと止んで、自分が悲鳴を上げてしまったのだということに気づいた。怪物の爪音《つめおと》がすぐ背後に迫る。  今度こそ自覚的な悲鳴を上げながら、月華は死に物狂いで走りに走った。  酒家の男たちが怖いのなら逆方向に逃げればよかったのに、坂を駆け下る方を無意識のうちに選んでしまった。店先を走り抜ける瞬間、一様に目を剥いてこちらを見ている男たちの阿呆面《あほづら》が一枚絵のように月華の脳裏に刻まれる。野良犬が酒家の明かりと人の気配を恐れて立ち止まってくれたのはよかったが、今度はだいぶ酒の回った一人の男が好色そうな奇声を発して立ち上がり、ふざけて月華の悲鳴の真似をしながら手足を出鱈目《でたらめ》に振り回して追いかけてきた。月華にしてみればたまったものではない。男の奇怪な叫び声と気がふれたような動作は泣くほど恐ろしかった。酔っ払いのしつこさで男は散々に月華を追い回し、最後にはどぶ板を踏み抜いて一回転した挙句に大の字に伸びてしまったが、月華の足がようやく止まったのはそれからさらに倍も逃げた後のことである。何かに蹴つまずくたびに追いかけられる恐怖はいや増し、耳に残る男の叫び声を現実のそれだと錯覚《さっかく》し続けて、汚水に浸かった辻も筵《むしろ》に包まって眠る物乞いたちの背中も無我夢中で踏み越えてしまった。行く手はいつしか猫の通り道のように狭くなり、暗闇の中で必死になって手探りをしていると何やら薄っぺらい戸板のようなものに身体ごと突き当たって、木の避ける感触と同時に身の丈にも余る深い草むらの中に転び出た。  もう走れない。  泣きべそに邪魔されて乱れた呼吸が一向に整わない。お気に入りの略装衣がどんな有様に成り果てているかはもう確かめる気にもなれず、生傷や節々の痛みにしばらくは立ち上がることもできなかった。青臭い匂《にお》いの中に横たわったまま、今から十数えるうちに群狗が迎えに来てくれたらもう二度と屋敷を抜け出したりしないと心に誓う。  十。  闇を渡る風が草を揺らし、淀んだ水の臭いが微かに意識された。  絶望に打ちひしがれつつのっそりと身を起こし、ちくちくする葉の感触に顔を顰《しか》めながら不器用に藪を漕《こ》ぎ始める。立ち込める草は次第に低く疎《まば》らになり、何処《どこ》とも知れぬ開けた場所に歩み出た月華はそこに、無数の人魂《ひとだま》が乱舞する常闇を見た。  運河の畔《ほとり》だった。  人魂の正体が翅禍虫《ハカム》であると気づくまでにしばらくかかった。親指の爪ほどの大きさの羽虫の一種で、泥水の中で成長した幼虫が晩春あたりになると一斉《いっせい》に羽化《うか》し、常闇に薄緑色のぼんやりした光を放ちながら飛び回るのだ。その様は確かに人魂のようでもあって、翅禍虫の群棲《ぐんせい》は卯を含む多くの国で縁起の悪いものとして嫌われている。  しかし、そのあまりの数に月華は単純に圧倒されてしまった。  とうとうこの世の果てまで来てしまったのだろうか。  月華はゆっくりと、まるで闇に惑う死人の魂に誘われるかのように歩き出す。そこは運河に面した空《うつ》ろな場所で、胡同を散々に迷った挙句の目にはまったく思いがけない広さに映る。見知らぬ神が祭られた小さな祠《ほこら》が不規則に点在し、足元の敷石はまるで太古の遺跡のようにも見え、ともすれば足を取られそうになる石組みの隙間からは気の早い夏草が茫々《ぼうぼう》と顔をのぞかせていた。大きな火を使った痕跡が方々にあり、一面に散らばる灰が月華の足に踏まれるたびに乾いた音を立てる。闇夜は幸いであった。——さもなくば、焼き跡の燃え滓《かす》に取り残された明らかな人骨に月華は気づいてしまっただろう。  行く手に広がる運河の水面《みなも》は粘性の高い油のように黒々と静まって、水が一体どちらの方向に流れているのか皆目見当もつかなかった。石敷きの地面全体が運河に向かってわずかに傾斜しており、自然と水辺へと向かう歩みの一歩ごとに数を増していく虫の光はまさしく、この世の果ての光景としか思えない。  そのとき、正面の空に光の気配が蠢《うごめ》いた。  雲が引いて、呆《あき》れるほど巨大な満月が唐突に天にかかった。垂れ幕が風を孕《はら》むような月光は瞬く間に周囲の闇を青く染め、ほんの三歩先の水際《みずぎわ》に立ち尽くしている何者かの後ろ姿が照らし出されて月華は驚きのあまり死ぬかと思う。  腰砕けに後ずさり、苔《こけ》むした敷石に手足を滑らせながら傍らの祠の陰に這い込んだ。  恐怖のあまり胃の腑が裏返りそうになる一瞬、先ほど自分を追いかけてきたあの酔っ払いが先回りして待ち伏せしていたのかと思った。しかしよくよく見れば、目の前の男は後ろ姿からでもはっきりそうと知れるほど若い。それにしても、これほど近ければ月華の足音も息遣いも当然聞こえたはずだし、そもそも悲鳴を我慢できるような驚きでもなかったのに、男はこちらの存在そのものにまるで反応していないように見える。まさか、  ——幽霊?  しかし、抜き身の剣を両手に下げた幽霊——というのも聞かぬ話である。  もしそんな幽霊が本当にいるのなら、男のすぐ背後に転がっている二本の鞘《さや》もまた幽霊だということになるのだろうか。  とはいえ、男の様子が尋常ならざるものであることもまた確かだった。こんな夜更けの川縁《かわべり》に一人突っ立っているだけでも普通ではないが、巨大な月に浮き上がる男の後ろ姿がゆらゆらと揺れ動いて見えるのは目の錯覚というわけでもなさそうだ。酒に酔っている風とは明らかに違う。何かの拍子に合わせて身体を揺り動かしている、という言い方でもまだ遠い。  ——そうだ、  月華は以前、右の袋の外れで狐憑きの占い師を見たことがある。  大仰《おおぎょう》な装束を着込んだ中年の女で、護神である狐を身の内に引き入れてお告げを下すという触れ込みだったと記憶する。そして、おっかなびっくり見物していた月華の前で女は確かに変貌した。別段恐ろしい顔つきをするでも泡を吹いて七転八倒するでもない女の何がそんなに変わって見えたのか、うまく説明する言葉を今も月華は持たない。しかし、今こうして目の前にいる男とあの狐憑きの女はどこかがひどく似ているのだ。  ——人間とはまったく別の「何か」がその身体の中にいる。  両者の共通点を強いて言葉にするならば、あるいは、そんな表現が月華の印象に最も近いのかもしれない。  何処とも知れぬ運河の畔にそんな男と二人きりでいるのは、ある意味では幽霊に出くわすよりもよほど恐ろしい状況であろう。しかし、出会い頭の驚きも過ぎ去った今、月華の胸中にあるのは「何か不思議なものに出会った」という一種の感動であった。  この者は、一体、何者なのだろう。 「——、」  祠に手を突いて身を起こし、声をかけようとして言葉が出てこない。そのとき一陣の風が運河を渡り、巻き上げられた髪に月華の注意が逸れた一瞬、男の中にいる「何か」が何の前触れもなく動き始めた。  男は逆手に握りなおした左の剣を背後に、右の剣を目の高さに構える。  それが「第二路」の「起式」と呼ばれる動作であることなど、もちろん月華は知らない。  そして男は柔らかな旋風《せんぷう》となる。最初に繰り出される技は基本の連環五剣——崩剣、把剣、横剣、劈剣、攅剣。それら五剣は木火土金水の五行《ごぎょう》に対応し、男の剣は月華の目の前で相生《そうしょう》と相克《そうこく》を繰り返す。相生環とはすなわち、崩剣が変化して把剣を生じ、把剣が変化して横剣を生じ、横剣が変化して劈剣を生じ、劈剣が変化して攅剣を生じ、攅剣が変化して崩剣を生じる円陣の流れ。相克環とはすなわち、崩剣が横剣を制し、横剣が攅剣を制し、攅剣が把剣を制し、把剣が劈剣を制し、劈剣が崩剣を制する五芒陣《ごぼうじん》の流れだ。  男は月華の目が追いきれぬ速度で旋転し、剣は月華の理解が及ばぬ術理で連環した。長大な刃が月光に濡れて冷え冷えと輝き、燃え立つような残像を残して蒼《あお》い闇に走る。果てしのない循環は無数の変化を生み出して一層の複雑さを増し、男は次第に手順の決まりきった動作から自由となって、繰り出される技も始まりと終わりと定型から解き放たれていく。  ——うわあ、  それはまるで、即興の舞踏のように月華の目に映った。  それはまさに、六十と七年の間、この大陸の誰一人として見た者のいない剣法だった。  男が踊る。その動きは淀むを知らず、万化して定石を持たない。物に影を作るほどの月光は死人どもの魂を逆に浮き上がらせ、それら無数の光を従えて縦横に走る両の剣先は万物に死を運ぶ車輪であり、旋転する男の体躯《たいく》はその車輪に乗って水辺に舞う死神の使徒であった。  男は最後に跳躍し、身体を反らして巨大な月を背負う。  そして、交叉した両腕の隙間に炯々《けいけい》と光る双眸《そうぼう》を月華は見た。  その正体が何であれ、男の身体の中にいる「それ」は、青い目をしていた。  月華は為す術もなく呼吸を止める、  ——すごい、  男は足音も立てずに地に降り立った。死人の魂は何事もなかったように静まり、祠の上に身を乗り出している月華だけが一人ぽつんと取り残される。  すごい、  すごいすごいすごい、  月華は祠の陰から飛び出した。背筋を這い登ってくる感情に耐え切れずにその場でぐるんと一回転する。熱病のような憧れをその目に湛《たた》え、思いは何ひとつ言葉にはならず、氷を踏むような足取りで男に近づいていく。  月華の背を押していたのはおそらく、幼子が綺麗な虫に触れてみたいと思う願望と同種のものだったのだろう。  男の身の内に潜む何者かは未だ去ってはいない。  月華は何度も躊躇った挙句、ついに腹を決めて、男の背中に手を伸ばそうとしたのだ。  それはまさしく、生きるか死ぬかの違いだった。  男なら誰でも、路地裏のちゃんばら遊びが世界のすべてだった時期がある。  もちろん涼孤にもそんな頃があった。棒切れ一本さえあれば大英雄になるも大悪党になるも変幻自在《へんげんじざい》、不死身の怪物を退治するも囚われの美姫《びき》を救い出すも朝飯前であり、棒のひと振りで意のままにならぬことなど何もなかったと思う。  ——ただひとつだけ、一緒に遊んでくれる相手が誰もいない、ということを除いて。  涼孤の記憶に残る最も古い光景は、何処とも知れぬ夕刻の路地裏で、一人ぼっちで棒切れを振ってる自分の姿だ。  もっとも、あの頃の自分は、そうした境遇を今よりもずっと納得していた気がする。何しろ自分は「言愚」なる存在であり、言愚とは馬鹿や間抜けの一種であって、故《ゆえ》に自分は皆に嫌われて当然である——という考えにはあの当時なりの充分な説得力があったし、子供心にはよく馴染《なじ》む理屈でもあったと思う。自分だって馬鹿や間抜けは嫌いだし、近所の子供たちがちゃんばら遊びをしているのを物陰から盗み見ることはあっても、自分はそこに混ぜてもらえるような身分ではないと信じていたのだ。  しかし、涼孤はただ一度だけ、その物陰から歩み出ていったことがある。  あの日の涼孤には策があった。——大英雄や大悪党の役は恐れ多いにしても、その他大勢の斬られ役なら自分のような者にもやらせてくれるかもしれない。何日にもわたって斬られるふりの練習も積んでいたし、その見事な死にっぷりに免じて皆も自分を遊びの輪に混ぜてくれるのではないかと期待したのだ。その結果は額の生え際の傷跡として、今も涼孤の身に刻まれている。  まさか木の股《また》から生まれてきたはずはないが、生みの親についての記憶が涼孤にはほとんどない。育ての親は蛇楊《ダヤン》という絵を生業《なりわい》にする男で、涼孤が物心ついた頃にはすでに初老にさしかかっていたと思う。貧民街に隠れ住む卯人の絵描きがなぜ言愚の子供の面倒など見ていたのかは今となっては大きな疑問ではあるが、当時は単にそういうものだと思っていたし、面と向かって事の次第を尋ねてみたことはついに一度もなかった気がする。涼孤の記憶の中にいる蛇楊はとにかくいつも家に閉じこもって絵筆を握っており、ときおり客らしき何者かと会って二言三言話をする以外はひどい無口で、流行《はや》り風邪《かぜ》でぽっくり逝《い》くまでに教えてくれたことといえば「他人の目をまっすぐに見るな」ということだけだった。  ちゃんばら遊びの斬られ役に志願して散々な目に遭《あ》って以降、涼孤はもっぱら昼間に寝て夜中に遊びに出るようになった。どうせ仲間に入れてもらえないのなら人気《ひとけ》の絶えた夜の方が気楽であったし、ひとたび闇に紛れてしまえば青い目も黒い目もなかった。——もっとも、あの頃の涼孤はまだ、自分の目が青いということをうまく飲み込めていなかったのだが。  闇の中からしわがれた声が聞こえてきたのは、そんなある夜のことである。 「柄《つか》の握りが悪い」  夜が自分を透明にしてくれると信じていた涼孤にとって、その声は胡同の闇に住まう物《もの》の怪《け》のそれに聞こえた。その場は悲鳴を上げて逃げ出したくせに次の夜になるとまたのこのこと出かけていったのは、相手が物の怪でもいいから一緒に遊んでほしかったからだと思う。  死胡同の果てに蹲っていたのは、見るからに冬を死に損ねたという感じのする物乞いの老婆だった。 「——握りが悪いって、どういうこと?」  老婆は枯れ果てた木の根のような指をもたげ、何かあったら殴《なぐ》ってやろうと棒切れを固く握り締めている涼孤の手元を指差して、 「柄は、そんなに鷲掴《わしづか》みにしてはいかん。そんな風では殴ることはできても斬ることはできんよ。力みも抜けんし、剣先も固く遅く短くなる」 「じゃあ、どうすればいい?」 「真っ直《す》ぐに立て。切っ先を下にして、剣を臍《へそ》に斜めに立てかけてみろ」  涼孤はその通りにした。 「胸の前で両手を合わせろ。坊さんが拝むときのように」  涼孤はそれにも従った。 「合わせた両手を下ろして、剣の柄に沿わせて、そのまま手を前後にずらして小指から握れ」  言われるがままの握りは棒切れに対して随分と斜めに角度がついて、まるで両手をそっと添えているだけのような按配《あんばい》だった。 「へんなの」 「わしも最初はそう思ったさ」  老婆は喉が引き攣《つ》るような音を立てた。どうやら笑ったらしい。  涼孤の心にふと疑念が兆した。このお婆《ばば》は一体何者なのか。お為《ため》ごかしを言って金をせびろうという魂胆ならもう少しましな相手を選びそうなものだ。 「——言っとくけど、ぼくはお金なんか持ってないからね」  老婆の喉が続けざまに引き攣った。今度はどうにか笑い声らしく聞こえる。 「そりゃあそうだろう。お前さんが金持ちの息子に見えるほど老いぼれちゃあいないよ」 「じゃあ、どうしてこんなこと教えてくれるの?」 「いけないかい?」 「だって、ぼくは言愚だよ?」 「ああ、そうだね。そんな眼《まなこ》じゃあさぞ難儀するだろう」 「じゃあ、どうして?」  老婆は死胡同の闇よりも黒い目で、涼孤の青い目をじっと見つめた。 「わしも言愚だからさ」  あの老婆の名前を、涼孤は今も知らない。  貧民街とはつまるところ、氏や素性のしがらみから逃れてきた負け犬が最後に吹き溜まる場所である。そこでは名前など大した意味を持たないし、もし大仰に名乗ってみせたところで聞く方も真面目《まじめ》に受け取りはしない。  その老婆も、涼孤にとっては最後までただの「お婆」だった。  涼孤はその日からお婆の元に入り浸《びた》るようになり、夕方から翌朝まで、ただひたすらに棒切れを振り回す日々をおよそ五年にわたって続けた。当初は一本だけだった棒切れは三年目あたりから両手に一本ずつになり、四年目の暮れに蛇楊が死んで以降の最後の一年は、お婆に面倒を見てもらいながら付きっ切りで教えを受けたようなものだ。 「——ねえ、それはお婆の剣?」  初めてお婆のねぐらに上がり込んだ夜、涼孤はまるでごみ溜めのような寝床の枕元《まくらもと》に隠すように置かれているふた振りの剣に気づいた。お婆は涼孤が指差す先を見もせずに、 「ああ、わしが若い頃に使っていた剣だよ」 「あれで人を斬ったことある?」 「ああ、たくさん斬ったよ」 「そんなの嘘だ。だって史児《シージ》が言ってた、一本の刀じゃ三人も斬れないって」  野菜を商《あきな》う露店を持っているというだけでも史児はこの界隈《かいわい》では充分に一目置かれる存在である。その日の昼、涼孤は露店から出るごみを漁《あさ》っているときに史児と包丁|研《と》ぎの会話を小耳に挟《はさ》んだのだ。  その野菜くずを鍋《なべ》で煮込みながら、お婆は喉の奥をひくつかせて、 「あれの振り回す菜っ切り包丁じゃあ、南瓜《かぼちゃ》を三つも切れりゃいいとこだろうさ。もう教えたはずだよ、拳で攻めるときの急所と剣で攻めるときの急所は違うんだ。継ぎ目をほんの少し斬るだけでいい。後はその裂け目に刀身を滑らせる。勘所さえ外さなければ、人の身体なんて勝手に弾けてばらばらになるくらいのもんだよ。——それこそ、史児の菜っ切り包丁でもね」 「教わってないよそんなの」  お婆は鍋から顔を上げて、 「おや、そうだったかね。それじゃあ、次はそれをやろう」 「あれを使って?」  お婆はそこで初めて顔を上げ、ふた振りの剣に視線を投げて、 「あれでやりたいかい?」  涼孤が躊躇っていると、お婆は再び喉をひくつかせた。 「そんなに物欲しそうにせんでもよ、わしが死んだらあれはお前にやるさ——」  その言葉は、翌年の冬の終わりに現実のものとなった。  枕元で泣いて別れを惜しむ類の出来事は何もなかった。もはやこの冬は越せまいとお婆自身も予期していたようなふしがあったし、ひどく冷え込んだある朝、お婆の小さな身体は寝床から落ちて冷たくなっていた。床下に隠した小さな壺にお婆が火葬の薪代《まきだい》を貯《た》め始めたのはずいぶん前のことで、死んだ後の銭まで数える吝嗇《りんしょく》さに涼孤はいつも眉《まゆ》を顰《ひそ》めたものだ。  死なれて初めてその真意がわかった。  お婆はその金で、来るべき日にこの世にただ一人残される涼孤の心をせめて気遣ってくれたのだろう。  貧民街を流れる運河を、付近の住人たちは「三途《さんず》のどぶ川」と呼んでいる。  蛇楊の葬式を取り仕切ったのは近所の連中で、涼孤はその間ずっと家で留守番を命じられていたものだったが、お婆の弔《とむら》いは涼孤ただ一人だった。人ひとりを灰にするのに八十貫もの薪が必要だとは思いもよらず、代金を壺ごと受け取った薪屋は焼き場の隅に火葬の仕度《したく》を整えるとさっさと帰ってしまった。積み上げた薪に火を放ち、燃えをよくするためにお婆の骸を竹竿で叩いていると、肉の焼ける臭いに引かれて野良犬どもが周囲をうろつき始める。連中を追い払ってはいけないと薪屋から予め釘《くぎ》を刺されていた——火葬の場に集まる犬は「群狗」といって、あの世から死人を迎えに来た使者の化身なのだという。  焼け残った骨を川に流すと、涼孤は本当の一人になってしまった。  気が遠くなるほど疲れ切っていたし、そのまま焼き場に倒れ込んで眠ってしまったのかもしれない。ふと気がつけばすでに日も落ちて、季節外れの翅禍虫の光が黒い水面にちらちらと跳ね回っていた。お婆のねぐらに戻り、年寄りの匂いのする寝床に座り込む。周囲の後片付けを始める気にもなれずに天井の大きな裂け目から射し込む月の光を顔に浴びていると、不意にお婆の声が脳裏に蘇《よみがえ》ってきた。  ——そんなに物欲しそうにせんでもよ、わしが死んだらあれはお前にやるさ——  涼孤は、ゆっくりと頭を巡らせた。  すぐ傍らの枕元に、そのふた振りの剣はある。  手を伸ばし、片方の剣を掴み取って月光にかざす。古びた柄に刻み込まれた左巻きの龍鱗《りゅうりん》は左翼《さよく》を守る雄剣の印だ。柄の精妙な細工に似合わぬ粗雑な作りの鞘は、幾多の死線をくぐり抜けるうちに何度も壊れて何度も作り直したからなのか。  涼孤は、ゆっくりと柄を引いた。  踊る龍の文様と低音の液体に似た刀身が、一尺ほど滑り出る。  そして、涼孤は孤独の本当の正体を生まれて初めて思い知った。  天から射し込む月光に照らされて、まるで鏡のような白刃《はくじん》の中からこちらをのぞき込んでいたあの青い目を、涼孤は一生忘れない。  あれから二年が過ぎて、お婆のねぐらは雨風に晒されてとっくに土に返ってしまったが、お婆の骨を流した三途のどぶ川は今もこうして目の前の闇をゆるゆると流れている。実を言うと、蓮空に押し付けられた厄落としの札はまだ懐に入ったままだ。  双剣を抜いて、涼孤は水際に立った。  お婆が死んで以降、涼孤はこの焼き場をしばしば訪れて�龍を呑む�ようになった。どの套路《とうろ》を打つかはそのときの気分だ。その日一日で何か胸が騒ぐようなことがあっても、ひとしきり剣を振ってふと気がつけば大分ましになっている。  頭のいかれた言愚が焼き場で剣を振り回しているなどと噂になったら厄介ではあるが、死人の出ていない日を見計らうようにはしていたし、少なくとも騒ぎを起こしたことはまだ一度もなかった。そもそも夜中の焼き場などに好き好んでやって来る者など、まさしく頭のいかれた言愚をおいて他にはおるまい。  雲が引いて、呆れるほど巨大な満月が唐突に天にかかった。  套路を開始する。  逆手に握りなおした左の剣を背後に、右の剣を目の高さに構える。第二路、起式より五剣五行連環。崩生把、把生横、横生劈、劈生攅、攅生崩。崩克横、横克攅、攅克把、把克劈、劈克崩。  お婆はこの剣法の名前も素性も教えてはくれなかったが、貪《むさぼ》るように習い憶えた幾多の套路を何万回となく身体に通しているうちにわかってきたことがある。套路の動作の中に、創始者の単なる癖《くせ》と思われる部分がまだ相当数残っているのだ。  つまり、この剣法はまだ�若い�ということになる。  そこに仄《ほの》見えてくるのは、それほど遠くない過去に存在した天才の姿だった。套路に残る癖から察するに、創始者は男。左利きで背はそれほど高くない。右足にたぶん古傷か何かがあって、背面の受けに独特の「粘り」があるのは長く伸ばした髪を後ろで束ねていたせいではないかと思う。その天衣無縫《てんいむほう》の剣訣を余人がいきなり真似ることは不可能だったはずで、どこかの時点で別の誰かが他の剣法の套路に動作を落とし込んで一応の体系立った技術としてまとめ上げたのだろう。全路を俯瞰《ふかん》すると、まるで荒れ狂う一筋の龍を何者かが軛《くびき》をもって押さえ込もうとしているかのような印象を受ける。  この剣法の核心は守りにある、とお婆は言った。  他者を一歩たりとも立ち入らせぬ絶対無敵の防御こそがこの剣法の主眼である、と。  そして、龍を押さえ込む軛を外したとき、本当にその通りのことが起こるようになったのはつい半年ほど前からだった。龍を呑んで套路を開始すると、不意に何もかもが遠のいて双剣の届く間合いだけが世界のすべてになり、その中心で自分はただひたすらに運動し、反応するだけの存在へと次第に近づいていくような気がするのだ。  ——ほら、こんなふうに。  雄剣と雌剣の刀身が作り出す、運動する自分の他は誰もいない世界。  まさに、我が身の孤独を絵に描いたようだと涼孤は思う。きっと、この剣法とこの青い目は自分にとっては同じものなのだろう。こうして舞っているといつも、記憶にある最も古い光景が蘇ってくる——何処とも知れぬ夕刻の路地裏で、一人ぼっちで棒切れを振っている自分の姿。  結局のところ、自分は未だに棒切れを手にしたまま、あの路地裏に立ちすくんでいるのだと思う。  第二路が終わっても、まだ龍を抜くのが惜しかった。内息《ないそく》は充実し、切っ先まで意識が浸透した両の剣は自分の腕とまったく区別がつかない。呆れるほど巨大な満月は大して位置も変えずに天にかかり、月光に舞う死人の魂はさらにその数を増して水面を渡っていく。  ちゃんばら遊びに混ぜてもらおうと物陰から歩み出て行ったあの日、自分を叩きのめした面々の顔と名前を涼孤はすべて憶えている。  連中はもうとっくに棒切れなど捨てて、一人残らず大人になってしまったのだろう。三分の一は悪事に手を染めた挙句に縄にかかり、もう三分の一は悪事に手を染めた挙句に命を落としたにせよ、それは貧民街という世界においては相応の始末のつき方には違いなかった。  涼孤の口元に自嘲《じちょう》の笑みが浮かぶ。  野垂れ死ぬ寸前に拾われた先が講武所だったとはまさに皮肉と言う他はあるまい。自分は今も、物陰から近所の子供たちのちゃんばらを盗み見ているのだ。お前も遊びの輪の中に入って来いと蓮空は言ってくれたが、同じ過《あやま》ちを再び繰り返す気には、どうしても、  背後。  群狗は、月華の左から入った。  あと数瞬でその白い首筋へと達する切っ先に月華がまったく反応できていないのは、群狗にとってはむしろ救いだった。月華が下手に足掻《あが》いていたらその動きが邪魔になって、群狗の踏み込みは間に合わなかったかもしれない。地を這う影の如く体を沈め、二人の間に割って入ると同時に腰の長剣を右の逆手に抜き合わせ、切っ先を左肘で支えて男の振り向きざまの一撃を受けた。月華を背後に庇《かば》う姿勢を強いられたおかげで重心が定まらず、完全には化かし切れなかった男の勁力が長剣の刀身から柄に抜け、右手の指先に肉を引き剥《は》がされるような激痛が弾ける。鞘に戻す余裕のなかった長剣はそのまま手を離して宙に残し、月華を後ろ手に抱き込んで腰を沈め、それ以上は身を守るためのどういう動きもしなかった。次が来たらどの道打つ手は無いのだ。  次は来なかった。  背後に転げ込む。両足を滑らせて起き上がったときにはもう月華の腰を脇に抱え、片腕を縦に構えて飛び道具の追撃に備えていた。後方に跳躍、そこで初めて月華が悲鳴を上げ、空中で転身、着地と同時に群狗は一散に逃げる。  月華にしてみれば、何が何やらまったくわからない。  男の背中に手を伸ばそうとしたら天地が何度も回転し、地べたに突き転がされたと思うが早いか、気がつけば群狗に抱えられて闇を疾走《しっそう》していた。懸命に背後を振り返ろうとするが、ぐらぐら揺れる自分の肩と真っ黒な闇の他には何も見えない。如何なる走法を用いているのか、群狗の足はまさしく宙を飛ぶような速さだった。瞬く間に焼き場を横断して胡同の闇に飛び込み、辻を右へ左へと折れた先で群狗はようやく足を止めた。 「——お怪我《けが》はありませんか」  お主こそ、もう息があがったか——そんな憎まれ口を叩こうとした月華の方こそ、いざ地に足を着けてみるとそのままへなへなと座り込んでしまう。すっかり目が回ってしまって、少し休んでからでなければとても立ち上がれそうにない。  しかし、そんなことはどうでもいいのだ。  月華は顔を上げ、四つん這いのまま背後の闇へと向き直って、 「——群狗よ、あれは、」  その闇を右へ左へと遡った先の先、まるでこの世の果てのようだったあの川縁に、ふた振りの剣を手にきっと今も佇んでいる、あれは—— 「あれは、何だ」  あれは、本当に生身の人間の為せる技だったのか。そう尋ねたつもりだった。  まるで質問の態を成していない月華の質問の意味を、群狗は正確に察してくれた。 「あれは、剣でございます」  群狗もまた、月華の視線を辿《たど》って胡同の闇を振り返る。 「あれこそ、剣でございます」  得心《とくしん》がいかぬ、とでも言いたげに月華は群狗を見上げて、 「剣——とはつまり、剣術か? 屋敷の裏庭で警護の者が棒を振り回しておる、あれか?」  あれは、違います。  そう言い切ってしまえばよかったのかもしれない。しかし、いくら形式上の事とはいえ、その警護の者たちを統率する立場にある自分が第十八皇女を前にそう断じてしまったら、彼らとしても立つ瀬があるまいと思う。 「——つまり、例えば、赤子から老人まですべてをひとからげに『人』と呼ぶこともできるように、剣にも色々な剣があるのです」  むう、と月華が鼻の穴を膨《ふく》らませる。綱渡りのように苦しい答弁であったが、群狗にとって幸いなことに、月華は興奮冷めやらぬ目を再び胡同の闇へと向けてそれ以上の追求はしてこなかった。  それにしても——と群狗は思う。  一撃を逆手に受けた右手の指先には未だに感覚が戻らない。月華に気取《けど》られぬようにそっと掌を裏返してみると、五本の指の爪が内側から出血して真っ黒に染まっていた。  震刃勁、もしくは「鎧斬り」と呼ばれる技術だ。  兵器勁は二種に大別できる。すなわち、人体をより徹底して破壊するための「柔勁」と、人体以外の対物破壊にその効果を発揮する「硬勁」だ。震刃勁は後者に属し、刀身に震動する勁力を通して敵の鎧や盾《たて》を切断するための技法である。靭性《じんせい》の高い剣を用いれば威力は大となるが使い手にも相応の功夫が要求される。 「決めたっ!」  突然、月華が飛び跳ねるように立ち上がって大声を上げた。胡同の只中に仁王《におう》立ちに立ち尽くして両の拳を固く握り締める。  しかし、物思いに囚われていた群狗の耳に月華の大声は届かない。これはまったく群狗らしからぬことであり、その双眸は爪が黒々と染まった己が右手にひたと据えられたままだ。  ——それにしても、  まったく恐ろしい功夫だった。あの男なら、剣の腹で頭を軽く叩くだけで相手を昏倒《こんとう》させてのけるだろう。鎧を着ていようが盾を振りかざそうが、間合いに踏み込んできた者は一刀のもとに排除することこそがあの剣法の唯一無二の眼目だ。恐らく、あれほどの勁力を刀身に常通させておくことさえも、あの男にとっては息をするのと同じくらいに当たり前のことなのだろう。 「群狗よ、妾は決めたぞ!」  月華は後ろ髪を微かに逆立たせ、身の内から湧き上がる興奮を抑え切れずにくるくると二回転する。胡同の果て、あの男がいる河畔の闇へと続いているはずの闇を見つめて満面に浮かべる大胆不敵な笑み。  そして、月華は驚天動地《きょうてんどうち》のひと言を口走った。 「妾も剣をやるっ!」  そして、群狗はまったくの上の空でそれに応えた。 「それはようございますな」  ——それにしても、  群狗の頬にふと苦い笑みが兆す。白刃に踊るあの龍の文様は夢にも忘れたことはないが、実際にあの男の一刀を受けたその瞬間まで確信が持てなかったとは無粋な話だ。一生を費やして探し続け、棺桶に片足を突っ込んだこの歳になってようやくあきらめもついたというのに——  ——よもや、これほどの目と鼻の先に、�龍�の末裔が生き延びていようとは。 「それでは群狗よ、本日ただ今をもってお主を妾の専属の師範に任ずる」 「恐れ入ります」 「助教《じょきょう》の人選はお主に任せよう。軍の腕利きを引き抜くもよし、地方より名のある高手《こうしゅ》を招くもよし。お主ならそちらの方面には顔が広いであろうしな」 「月華様、いま少しお声を低く」  自らの口から勝手に滑り出てきたそのひと言で、群狗は不意に我に返った。  その通り、まさしく迂闊《うかつ》だ。  自分は今、卯室の皇女と共に、どのような無頼の徒が潜んでいるかもしれぬ夜の貧民街の只中にいるのではなかったか。  袖から飛※[#かねへん+票、読みは「ひょう」]を滑り出させて周囲に油断なく目を走らせる。まさか月華がこれほど遠くまで来ているとは思わなかったので、正直なところ備えは手薄だ。六本の飛※[#かねへん+票、読みは「ひょう」]を投げ切ってしまったら後がない。道端に落ちていた古い竹竿を拾い上げ、軽く振るって感触を確かめた。火葬の際に使われる火掻き竿の成れの果てなのだろうが、こんな物一本でも群狗の手にかかれば恐ろしい武器になる。周囲に油断なく目を走らせ、辻の角に身を潜めて行く手の闇を窺《うかが》う群狗の背中にいきなり月華がべったりと貼りついてくる。 「のう群狗よ、妾は何日くらい精進すれば、あの男より強くなれるのだ?」  まったくおかしなもので、どれほどの大声で何を言われても全てが上の空だった群狗の脳みそに最初に届いたのは、月華が群狗の耳元に口を寄せて囁いたそのひと言だった。  群狗は、ゆっくりと、振り返る。 「——は?」        *  誰かいた。  その誰かを抜き打ちにした姿勢から、涼孤は呆然と雌剣を下ろした。知らぬ間に龍は抜け落ちており、何かと打ち合った勁力の残響が雌剣の柄に未だに響いている。何よりの証拠には、雌剣の一撃を受け止めた長剣が涼孤のすぐ足元に残されていたのだ。  確かに、誰かがいたのだ。  たぶん二人。  第二路が終わった直後に、まず背後から一人。  雌剣が反応して、遅れて現れた二人目がそれを受けた。  とにかく驚きが先に立って、涼孤は身の内にうねる龍を必死に抜こうとした。  そして、ふと気がつけば目の前には誰もおらず、翅禍虫の舞い飛ぶ闇がただ茫漠と広がっているばかりだった。こちらの隙が大きかったのも確かだが、それを差し引いても実に鮮やかな逃げっぷりである。二人のうちのどちらか一方は——たぶん二人目の方だと思うが——さぞかし名のある達人に違いなかった。  涼孤はしかし、達人の名を知れぬことをそれほど残念だとは思っていない。  むしろ、いつまでも気にかかるのは一人目の方だ。  顔も姿も見たわけではないが、ひどく無邪気で慣れ慣れしい奴だった。雌剣が反応した首筋の高さからして自分とさして変わらぬ身の丈があったことは確かだが、気配だけで見れば小さな子供か、あるいは子犬か何かだったのではないかとさえ思う。  あれは、一体、何者だったのだろう。  月光は青々と降り注ぎ、死人の魂が渦を巻くこの世の果てに立ち尽くして、涼孤は誰かがいたはずの闇をいつまでも見つめている。